Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

続・新幹線開業直前の動き

◆集中アクセス余話
臨時増刊号でお知らせした集中アクセスのその後です。

1月17日は最終的に3,372まで伸びました、18日、19日はご覧の通りで3日間で6,900です。 通常より4,500~4,700多く、余波が続いてる様です。

週間と言っても更新5日目で、平穏だった最初の2日は120~130でしたから、この3日間で4,300アクセスは、臨時増刊号更新したので計算が合います。 読んでもらえるのは良いのですが・・・。 この話はこれで終わりにして通常営業に戻ります。


前回新幹線開業とダイヤ改正及びオリンピック開催準備に沸く首都圏の話題を集めたので、今回はその他の話題を拾ってみます。 まずは新幹線に係わる珍車です。


★新幹線の珍車

見た事のないご面相は新幹線軌道試験車だそうで、敷設が終わった大阪地区試験の為に鴨宮基地から西下したとあります。 ドクターイエローのご先祖様に当たるのでしょうか。

こちらは存在すら知らなかったレール研磨車、レールの錆を落とし、削った錆粉を水で洗い流す車両です。 レールと車輪の摩擦で走る鉄道で錆びは問題ないと思いますが、高速では錆粉が問題になるのでしょう。 レイアウトレールクリーニングカーと同じ機能です。


★事故遅延挽回ダイヤ
最近は事故や悪天候で運転不能になると運休や運転打切りが多い様です、高速バスや航空便の代替移動手段があり現代人は待たされるのが嫌いです。 当時は事故等で6時間以上遅延確実でも運休も運転打切りせず、乗客は辛抱強く運転再開を待ちました。 復旧すると挽回ダイヤが優等列車優先で組まれました、スジ屋の腕の見せ所でした。

ブルトレ特急登場時関西から苦情が出ました、夜中1-3時では利用し難いからです。 国鉄は関西-九州間夜行急行増発で宥めましたが、関西で昼間ブルトレは見られませんでした。 事故で大幅遅延した九州行ブルトレが夜が明けてから関西を通過したニュースです。

特急『おおとり』は東京18:00発名古屋行でしたが、『さくら』と『みずほ』の間の発車で遅延に巻き込まれ、挽回ダイヤで運転区間を大阪まで延長し、東京7:00発『第1こだま』のピンチヒッターを務めた様です。


★新型車西へ下る

電化幹線普通列車主役は80系でしたが、首都圏から113系に置き換わる動きが関西に達しました。 快速列車としてのデビューです、上記4連は基本編成7連の付属編成だったと思われますが、11連だったのかx3の12連だったのか、関西事情に詳しくないので解りません。

ブルトレ牽引専用機EF60 500番台が関西にも続々配備されてます。


★大阪市内

大阪は新幹線開業で新大阪駅への市内アクセスが必要になり、地下鉄路線網拡充で全国初の市電廃止に踏み切りました。 交通渋滞緩和目的もありますが、1970年大阪万博開催へ向けた都市改造の狙いもあったと思います。 地下鉄用車両が続々完成してます。

1964年6月19日が大阪駅前を市電が走った最終日だった様です。 見覚えのある旧大阪駅で、旧上野駅、旧新宿駅と似た雰囲気なのは同時代に建設された建物だからでしょう。

市電運転終了告知の看板です、手書き看板は個人商店でたまに見るだけになりました。

大阪市電車両は格安掘り出し物だった様で、お隣神戸を始め鹿児島、熊本、広島など各地の市電として長く活躍しました。


★関西私鉄

近鉄奈良線新生駒トンネル開通?、記事によると旧生駒トンネルは小型電車建築限界で建設され大型車通行不能だった様です。 これで国鉄に対するアドバンテージ拡大です。

旧トンネルが短いと言う事は標高が高い場所にあったのでしょう。 4連停車可能と思われる旧トンネル出口の小駅は廃止されてます。

前出近鉄8000系・8500系や小田急2600系の様に通勤輸送力増強の為に、私鉄新型大型電車が次々登場しました。 南海ズームカーはそれ等とは少し異なり、高野線山岳区間直通運転用の17m車で、南海初のカルダンドライブ採用車でした。

通勤輸送力増強は車両大型化だけでなく、新型強力電車スピードアップでも複線化でも可能で、南海高野線はこの道を進んでました。


★西の蒸機達

新旧対比で言えば旧の極み、老兵C51最後の3両が亀山機関区に在籍し、近況が伝えられてます。 1両は休車、1両は高取工場送り(廃車?)のかろうじて生存状態です。

大阪南方では和歌山以遠は蒸機天国でした。 ここでも複線化工事が始まってました。

京都で開催された展示会に出展された熱海軽便鉄道の豆蒸機です。 熱海軽便鉄道について調べてみました。

東海道本線が御殿場回りの時代、国府津-小田原間に馬車鉄道があり、接続する形で小田原と温泉熱海間に762mm軌間鉄道が建設されました。 資金難で人車鉄道として開業、後に蒸機運転で軽便鉄道になりましたが、丹奈トンネル掘削決定で事業継続を断念し、トンネル工事関係者輸送を行ってから資産全てを国に売却し姿を消しました。

C55ファーストナンバー元流線機は山陰で活躍してました。 1964年は北海道や九州にc55
がかなり残ってましたが、数年後には北海道にわずかに残るだけになりました。

最後は新旧交代象徴の事例、九州入りして鳥栖区に配属されたDD51は急行『雲仙』牽引で慣熟運転開始、旧本務機(C60 or C61不明)はバックアップで火を落としてませんが、力行しません。 蒸機追い落としの主役DD51が本格的活動を始めて時期でした。


ではまた。

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