Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

銚子電鉄1ヶ月運休

レイアウト建設が進めば、プロセス写真と文章で工作記ブログ記事になります。 車両購入すれば、単品と走行写真にインプレッション添えて入線報告ブログ記事になります。 建設が進まず、車両購入しない当社はブログ記事に苦労してます。  『鉄道関連読物』として興味を持って貰えるネタを提供し続けるしかないからで、今回は銚子電鉄の話です。


銚子電鉄は、1960年に並行するバス路線を運行する千葉交通傘下に入り、自動車交通発展による利用客減と、犬吠採石場操業停止による貨物収入減で経営危機に陥ってました。 役員会で廃止の方針が決まった1965年1月6日に変電所機器故障により送電停止、運転中の電車は立往生し復旧見通しが立たず運休しました。 運休中の銚子電鉄レポートです。

執筆者は成人の日(1月15日)の休日を利用し、江ノ電がパンタ化して関東で最後に残ったポール集電の銚子電鉄訪問を計画しました。 ところが総武本線列車銚子到着3分前に銚子電鉄運休を車内アナウンスで知り、がっかりしてます。

地元紙と全国紙県内版には載ったでしょうが、TVの全国ニュースではまず流れてなかったハズで、東京から出掛けたと思われる執筆者が、現地でアリャリャとなるのは無理もない事でした。 現在の様に『告知義務』などと煩い事を言う人は誰も居なかったのです。

と言う訳でポールを上げて走る銚子電鉄の写真撮りに来たのに、運休中の様子しか撮影できず、ご覧のレポートタイトルになりました、今となっては逆に貴重な記録です。 多分銚子駅から500m離れた銚子電鉄本社、車庫がある中ノ町へ徒歩で向かったのでしょう。 

小さな凸電はポール上げたままですが、右の電車は下げてます。 『やぶいり』はほとんど死語ですね、商家に住み込み奉公してた丁稚や女中が帰省を許される日で、旧暦の1月16日と7月16日でした、住み込み奉公自体が消滅した今、知る人も少ない言葉でしょう。

故障した中ノ町変電所の設備は1946年に蒲原鉄道から譲渡を受けた中古品で、老朽化による故障(寿命破損)でした。 復旧には多額の費用が掛かり、運休10日目に復旧作業は開始されておらず、このまま廃止されるのではないかと言う観測が流れてました。

銚子電鉄は全長6.4km、銚子の次駅の中ノ町に唯一の変電所があったと言う事は、この距離なら変電所を路線中央に設置する配慮が不要で、メンテ性を優先したからでしょう。 列車交換可能駅が2駅、無人駅が2駅あります。 ここからは地元銚子郵便局勤務の方の1月10日取材と撮影写真を合わせて進めます。

 

運休中は親会社が路線バスを大増発し旅客輸送しました。 執筆者も海鹿島駅まで3km歩いた後は、バスを利用したでしょう。 通勤通学定期客はそのままバスを利用できる代行輸送だったと思いますが、一般客は鉄道運賃よりかなり割高なバス正規運賃だった様です。

【1月16日】
その結果、線路脇を歩くこんな風景も見られました。 始点終点含めて10駅、駅間平均距離700mなので、3駅程度ならバスを利用せず歩いた人も多かったでしょう。

デハ301は事故発生時の海鹿島駅で立往生したまま停車してます。 この写真は銚子郵便局員の方の撮影ですが、レポート執筆者もここまで歩いてます。(写真なし)

終点の外川駅は扉を閉じたままです。 当時の鉄道は国鉄はもとより私鉄・軽便鉄道を含めて旅客・貨物・手小荷物輸送の3点セットが常識(他の輸送手段が未発達)で、旅客輸送に特化した新幹線やモノレールは新時代の鉄道でした。


変電所事故発生時に銚子電鉄線内発貨車が中ノ町に10両あり、ヤマサ醤油社線DLを借りて牽引する案がありましたが国鉄が難色を示し、銚子駅まで500mを銚子電鉄職員が手押しで移動し、1月9日に受け渡したそうです。

一方で銚子電鉄内行貨車8両は、銚子駅に留め置かれたまま開通を待ってる状態でした。 廃止危機を救ったのは京成グループ、その動きは1月18日頃だったらしく、19日時点で運転再開見通しは立ってません。 修理完了し運転再開は2月6日、丸1ヶ月の運休でした。

銚子電鉄の経営はその後も芳しくなく赤字続きでしたが、1969年に銚子市の鉄道欠損補助金の交付が始まり、1975年から『地方鉄道軌道整備法』に基づき、運行維持の為の欠損補助が国・県・市により行われる様になりました。


銚子電鉄も補助金頼りでない自助努力を続けており、ワンマン運転等本業の合理化だけでなく、ぬれ煎餅、鯛焼き、揚げ餅、佃煮等の食品製造・販売に力を入れて成果を挙げ、売上高の8割を鉄道以外が占めてます。 謂わば食品製造販売会社の鉄道部門が実態で、からくも生き残った鉄道の、60年前に起きた廃線危機についての紹介でした。


ではまた。

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