Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

続・記念切符から見える時代相

前回は1961年10月サン・ロク・トウダイヤ大改正前で紙数が尽きました。 大改正で登場した新特急の記念切符は作られなかったので、最初は地味~な記念切符の話題です。


★1961年12月 関西本線DC化 

1961年12月、関西本線大阪-奈良間にDC列車運転開始し記念切符が販売さててます。 国鉄が競合する近鉄を強く意識してたのは間違いありません。 それ以前は蒸機列車だったのでしょうか、近鉄にボロ負けの状態を改善する挽回策だったと思われます。


★1962年3月 芸備線ディーゼル準急増発

1962年春のダイヤ改正で芸備線都市間連絡準急が増発され、その際準急券の記念切符が販売されました。 広島-新見-米子間の『しらぎり』と、広島-新見-岡山間の『たいしゃく』で、津山・新見両盆地の中国地方山間部と山陽/山陰を結ぶ機能を果たしました。


中国山地内に位置する街にとって、中国自動車道が瀬戸内海沿いの土地取得が難しい地域を避け、山の中にトンネルを掘って建設された事は非常に幸運でした。 中国道開通で阪神/九州/広島との時間距離は大きく短縮し、姫新線と芸備線の鉄道路線価値は低下しました。 芸備線は備後庄原から先の廃止がJR西から地元に提案され、現在協議中てす。


★1962年6月 北陸トンネル開通/福井電化

1962年6月、北陸本線の難所、敦賀-今庄間を直線的に掘り抜く北陸トンネル完成に合わせ、福井までの電化が完成し記念切符が販売されてます。 福井電化は裏日本縦貫線電化の第一ステップで、新幹線建設で開発された掘削技術を使いトンネルで難所突破、電化、複線化を同時に行う国鉄標準技法になり、北陸本線では親不知にもこの手法が使われてます。


★1962年9月 赤穂線全通

内陸部を直線的に走る山陽本線に対し赤穂線は瀬戸内の岬巡りのローカル線です、1962年9月に全線開通し記念切符が販売されてます。 券面デザインが大回り路線を表してます。 西大寺駅は岡山市内の赤穂線の駅で、記念切符は普通乗車券です。


★1962年10月 寝台急行『安芸』『音戸』運転

20系客車の特急車両置き換え、東北本線寝台急行の特急格上げで余裕の出た寝台車を使い、東京-広島間寝台急行『安芸』と、大阪-下関間寝台急行『音戸』が運転開始され、急行券の記念切符が販売されてます。 星空のハンモックで眠る子供のメルヘンデザインです。


★1962年10月 準急『つくばね』運転

準急『つくばね』は上野-水戸間を東北本線/水戸線経由で結んだ優等列車で、1962年10月のダイヤ改正で登場し、準急券が記念切符として販売されてます。 水戸線沿いの真岡・下館と東京を繋ぐ最速列車になりました。


★1963年4月 金沢電化

福井電化ら10ヶ月、1963年4月に北陸本線電化は金沢まで伸び、急行券の記念切符が販売されてます。 関西圏から北上して敦賀へ、東北に進み福井、金沢へ、更に富山、新潟を目指す電化が矢印に込められたデザインです。 ダイヤ改正で電車優等列車が登場しました。


★1963年4月 準急電車『とも1号72号』運転

1962年5月の山陽本線広島電化を受け、岡山-広島間に電車準急『とも』が2往復運転開始され、準急券として記念切符が販売されました。 大漁旗をイメージさせるデザインです。


★1963年6月 平電化

常磐線は勝田電化から2年、1962年10月の高萩電化のステップを踏み、1963年6月に平電化完成、東京電環行普通乗車券(¥600)が記念切符として販売されてます。


★時期不明 常磐線さようなら蒸気機関車

正体不明の常磐線『さようなら蒸気機関車』記念切符です。 券面はデフなし9600牽引旅客列車で、水戸-高萩間普通乗車券です。 謎なのは発行日、券面印刷は45.3.21と読み取れ、これが正しければ1970年です。 平電化以降の1963年夏~秋なら解り易いのですが、平電化の7年後、常磐線全線電化の3年後、1970年はチョッと考えらないタイミングです。


★1963年6月 寝台急行『天の川』運転

上野-新潟間は夜行には距離が短目で、普通列車と電車急行の夜行が運転されてました。 そこに旅客は全て寝台車の寝台急行『天の川』を登場させたのは、有力政治家への忖度だったのかもしれません。 1963年6月に運転開始され急行券記念切符が販売されてます。


★1964年3月 DC急行『出島』運転

1964年3月、呉と長崎の両港町を結ぶDC急行『出島』が運転開始され、急行券の記念切符が販売されました。 この様な都市間連絡優等列車は準急でしたが、『出島』は急行で登場しました。 準急が段階的に廃止される動きを先取りしたのかもしれません。


★1964年10月 東海道新幹線開業

150年を越える日本鉄道史上、エポックメーキングな出来事は?の問いに、新橋(汐留)を陸蒸気が出発した開業日を除けば、1964年10月1日の東海道新幹線開業日を挙げる人が多いのではないでしょうか。 日本が世界に誇れる鉄道を完成させた日だからです。 特急運転開始記念切符を廃止した国鉄も開業は別、豪華な記念切符を販売してます。


★1964年10月 甲府-上諏訪間電化

1964年10月には先月ブログで紹介した中央本線甲府-上諏訪間の電化が完成し、新設された急行『たてしな』急行券の記念切符が販売されてます。 券面デザインは165系電車をモチーフにしてますが、左端にあしらわれたマークが何なのかサッパリ解りません。


★1964年10月 準急『いなば』運転

当時山陽側の阪神/岡山(宇野)/広島/下関(博多)と、山陰側鳥取/米子(松江)を結ぶ多くの陰陽連絡準急が、福知山線/姫新線/津山線/因美線/伯備線/芸備線/木次線/山口線/美祢線経由で運転されてました。 その多くが津山/新見で分割・併合する複雑な運転パターンでした。


そこに新たに広島-鳥取間の準急『いなば』が加わり、準急券が記念切符として販売されました。 準急『いなば』は広島発22:50の夜行列車で、他列車との分割・併合はなく芸備線/木次線経由で松江着4:01、米子着4:29、鳥取着6:38のダイヤで運転されました。 運転距離が100kmを越えるので、準急廃止に先立ち急行に格上げされてます。


★1964年10月 急行『関門』運転

新幹線開業で余剰となる153系を使い、下関-大阪(新大阪でないのが不思議です)電車急行『関門』が運転開始され、急行券の記念切符が販売されてます。 この列車により、新幹線で朝東京を出れば、その日の内に下関まで行ける様になりました。


★1964年10月 白糠線開業

1960年代は鉄道建設の時代で、敷設計画に基づき鉄建公団が次々と新路線を建設し、運営を担当する国鉄の累積債務を増大させ続けました。 白糠線は根室本線釧路西海沿いの白糠と池北線足寄を結ぶ路線として計画され、1964年10月に白糠-上茶路間33kmが完成開業し記念切符が販売されてます。 券面デザインは地元に伝わる郷土芸能でしょうか。


始発白糠駅から終着上茶路駅33.1km普通乗車券が¥80の時代でした。 新しいローカル線として終着上茶路を除き(後に業務委託化)全て無人駅で、足寄への延伸計画は棚上げされ、開業20周年前年1983年に全線廃止されました。 1970年廃止の根北線を皮切りに、1980年代は北海道赤字ローカル線が国鉄再建法により次々と廃止されました。


★1964年10月 東京オリンピック開催

新幹線開業10日後10月10日(昔の体育の日)が東京オリンピック開会式でした。 と言うより、全てをこの日に間に合わせる為の10月1日でした。 オリンピック開催の急行券記念切符が販売されてます。 『国鉄に乗って東京まで見に来て』なのでしょう。


以上、戦後の国鉄発足から新幹線開業まで15年間の記念切符を追ってみました。 戦後復興から経済大国への流れの中で、国鉄が大きな役割を果たした国鉄黄金時代でした。 一方で白糠線の様な無節操な新線開発で体力を奪われ、財政破綻の下り坂が目前に迫ってました。 まとまりのない話ですが、読み物として楽しんでいただければ幸いです。


ではまた。

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