Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

上諏訪駅の変遷に想う

諏訪市博物館で非電化時代の上諏訪駅再現ジオラマを見て、考証してみることにしました。 筆者上諏訪駅初訪問は1965年夏、松本電化完成直後でした。 夕刻上諏訪着、その日の夜行鈍行で新宿へ帰る際に立ち寄ったのです。 まさか第二の故郷になるとはね。

【前号より転載】
松本電化後も上諏訪機関区は1972年3月末までは存在しており、貨物扱い停止前なので貨物側線もあり、ゼブラ塗装のC12が入換作業をしてました、貨車入換には小型蒸機の使い勝手が良かったのでしょう。 電化で駅構内線路配置は変わらず、何度も目にしました。


機関区跡は道路と駅前広場に変わってますが、こんな大型扇形庫設置可能なスペースはありませんでした。 上諏訪駅周辺は山と湖に挟まれた狭い土地で、駅前すぐ国道20号線、市内に平面交差踏切が2ヶ所あり、上諏訪手前から岡谷間は今も単線、複線化工事も高架化もできないほど狭いのです。 それでは中央東線電化の歴史を振り返ってみます。

浅川(高尾)-甲府間は1931年に電化されその状態が長く続きました。 1962年春に上諏訪-辰野間が電化され飯田線が上諏訪まで乗り入れ可能になりました。 従って再現ジオラマは1961年まで、63年以上前の姿になります。 中央東線乗車時に実感ありませんでしたが、これほど多くの変電施設があるとは知らず、直流電化は金が掛かるを実感します。

【小淵沢付近のD51重連貨物列車】
中央東線は甲府盆地西の塩川鉄橋から小淵沢まで、日野春駅構内を除き25‰登り勾配が続く区間で電化によるスピードアップが望まれてました。 増加する観光需要対応だけでなく、県を挙げて取り組んでた高原野菜のブランド化にも影響があったからです。

上諏訪-辰野電化完成の直前、甲府-上諏訪間はまだD51の天下でした。 上り列車D51が2番線、副本線3番線にもD51が停車してます。 貨物側線跡地は現在冨士見図書館になっており、お馴染みの場所です。 冨士見駅を出た本線は左にカーブして短いトンネルを抜け。

【過去記事より転載】
立場川橋梁の上に飛び出します。 上諏訪駅初訪問の半月後八ヶ岳山行で新宿から夜行鈍行で茅野まで、小淵沢で目を覚まし、寝気覚ましにデッキに立って入笠山の山並み眺めてたら、突然高さ50mの鉄橋に飛び出し、ビックリした事を懐かしく思い出します。

1964年に入ると電化の足音が迫ってきました。 コンクリートポールが並ぶ小淵沢-長坂間の下り勾配を走る蒸機列車です。

電化工事完成の4ヶ月近く前に小淵沢駅構内の電化工事が完了してました。 駅舎が改築されただけでホームも跨線橋も現在まで変わりません。 左の短いホームが小海線です。

当時の中央本線優等列車はDCと夜行客車編成、甲府-上諏訪間電化が完成しても松本行急行はDCです。 出力不足を補う為、キロ28を2エンジン化したキロ58を使用してました。

7月に入ると工事は完成に近付き、集電試験やD51をバックアップに従えた電機の慣熟運転が行われる様になりました。

諏訪湖端の上諏訪-下諏訪間単線区間の165系試運転列車です。 諏訪湖は400年前現在の5-6倍の面積があり、中央本線は古く固い地盤の境界線に敷設されました。 つまり、諏訪湖東端で幅約5km、茅野駅付近で幅約2kmの線路より低いエリアは昔の湖底だったのです。


諏訪湖は八ヶ岳山麓から流入した土砂で埋め立てられ狭くなりました。 自宅建設時に候補になりましたが、深さ80mまで軟弱地盤と聞き止めました。 中央構造線とフォッサマグナ交点で41年間震度5以上の地震(県内4回発生)がなかったのは僥倖で、万一当地で大地震が発生すれは、数万人が暮らす元諏訪湖湖底エリアは液状化で甚大な被害を被るでしょう。

【筆者撮影 諏訪湖】
現在も諏訪湖への土砂流入は続き、山の中の盆地底湖で深そうに見えますが、水深7mしかなく、地元冗談で諏訪湖観光船で事故に遭っても、『白鳥丸』の頭に掴まってれば沈まないと言われてます。 放置すれば湿地化し、やがて消える運命ですので、観光資源『諏訪湖』を守る為に周辺自治体が費用負担して浚渫作業をしてます。 話が逸れました。 



電化前月になると165系試験運転が頻繁になりました。 当時の韮崎はスイッチバック駅で、駅舎は現在の韮崎駅北側の低地にありました。 松本電化完成後の1966年秋の金峰山行の際もスイッチバックのままでした。 大月-小淵沢間に多数存在したスイッチバック廃止は、多分旅客列車全てが電車化され、旧型電機客車列車が廃止された1970年代でしょう。

甲府-上諏訪間電化工事は8月23日完成、営業運転開始は9月15日でした。 上諏訪駅1番線の祝賀電車発車式の様子です。 後ろに跨線橋が写ってるので、この時点で第2跨線橋が設置されてたと解ります。 当社生野駅跨線橋のモデルにした明緑色の跨線橋です。

上諏訪-茅野間の祝賀電車です。 都市部は60年で風景が様変わりしますが、地方の変化は緩やかで現在の何処だか解ります。 複線化され家が建て込んでますが面影があります。

下り祝賀電車の茅野駅進入です。 下り本線駅舎ホーム1番線でなく副本線3番線進入は茅野駅でも祝賀セレモニーがあったのでしょうか。 ところでこの祝賀電車は各駅停車で、運転区間は甲府-上諏訪間だと思います。 165系試験運転を多く行ったのは、8ヶ月後に迫った松本電化で、急行『アルプス』を一斉に電車化する布石です。

電化開業日の上諏訪駅の様子、片流れ屋根に横長窓が並ぶ駅舎を再現ジオラマは簡略化しながら良く捉えてます。 国鉄は地元への飴玉を用意してました、10月ダイヤ改正での新宿-上諏訪間電車急行『たてしな』増発です。 松本電化までのショートリリーフです。

甲府-上諏訪間電化が完成しましたが、D51がEF13に変わっただけで上諏訪駅に大きな変化はありませんでした。 一部のD51は北海道に転出しましたが、辰野-松本間非電化で半数は残りました。 暖房用蒸気発生器を持たないEF13の為に暖房車が増備された程度です。

【再現ジオラマの上諏訪機関庫】
1970年前後は登山やスキーで年1回は上諏訪下車か通過してます。 狭い構内で車窓からもホームからも機関区を見通せました。 扇形庫は木造の奥行が短い小型で、煤に汚れて黒く扉付きでした。 諏訪で生まれ育った高齢者鉄道ファンなら子供時代に見ており、『こんな立派な扇形庫ではなかった』と言えたハズなのに不思議です。 

先にお話しした様に狭い土地で、上諏訪機関区は地図上でご覧のエリア、80mx180mの鰻の寝床型でした、駅奥に張り出した扇形庫設置スペースはなかったのです。 再現ジオラマ製作者は忠実再現より『作りたい物を作る』優先でレンガ造り大扇形庫を作ったとしか思えません。 また構内線形に詳しくない様で、茅野方安全側線の定位/反位が変です。

探したら不鮮明ですが当時の上諏訪機関区画像がありました、中央に転車台、その奥に扇形庫の4線目までが写ってます。 木造庫は確かで黒っぽい色、扉付きかどうかは判然としません。 扇形庫は南から駅舎側東にあり、再現ジオラマは角度が150度違います。


庫内線1本に付き煙抜き煙突1本しかないのも、奥行の短い小型庫の特徴です。 扇形庫右奥にはクレーン式の給炭施設(再現ジオラマは転車台進入線上にあり違う)と背の高い給水塔が見えてます、ここが機関区南西コーナーと思われます。 ここでンッとなりました。

【前号より転載】
上諏訪駅再現ジオラマ機関区に給水塔がない!のです。 これは酷い、酷過ぎるね、給水塔のない機関区など有り得ません。 これが再現ジオラマとして通るのは、発注した諏訪市博物館に当時の事を良く知る人は居なかったからでしょうね。


ではまた。

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