Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

鉄道P誌 1964年9月号 C56特集

今回は鉄道P誌1964年9月号からC56特集です。

【鉄道P誌 1964年9月号表紙】
国鉄動力近代化計画がスタートし、近い将来蒸機全廃が確定した1960年代初頭から、鉄道P誌は蒸機特集を始めました。 早く消える形式からで、C51から始まりました。 関連形式一緒にしたシリーズでしたが、企画者は全体計画立案せずスタートし、先が見えた中盤過ぎのこの号で辻褄合わせした結果、C56/C59のミスマッチな組み合わせ特集になりました。

国鉄蒸機最軽量テンダー機C56と、C62と並び軸重が重い大型蒸機C59の組み合わせの共通項を探すのは困難です。 1962年5月号でC型タンクロコ3形式を一緒に特集したのが最初のミス、1963年10月号で2C2軸配列蒸機3形式を一緒に特集したのが第2のミスでした。


本来なら国鉄近代タンクロコの祖C10とその後継C11 2形式で特集し、C12は簡易線区用機としてC12/C56特集にすべきでした。 また1963年10月号は、戦後の旅客輸送急増対応のD⇒C改造機C61/C62特集とし、C60は軸重軽減機としてC59/C60特集にすべきでした。

【本文記事タイトル】
特集号にはその形式の設計・整備・運用に係わった国鉄マン寄稿記事が掲載されますが、C59とC56を並べて論ずるには無理があり、どれも2論併記にするしかなく、下段の様に地域を区切っての思い出話もあります。 企画ミスは置くとしてC56です。

【1963年版 蒸気機関車スタイルブックより】
C56は1935年-1939年に製造された丙線区に満たない規格で敷設された簡易線区貨客両用機として設計・製造された蒸機で、C12設計を流用しテンダー機にしてます。 従って同時期に製造されたC55から採用された一体化ドームを採用せず2コブドームです。

【同上】
ドーム一体化は採用しませんでしたが、C55から採用されたキャブ前面傾斜デザインを取り入れ、軽快さを演出してます。 逆推進運転を前提にした後方視界確保の為の凸型断面形状テンダーが特徴で、元々2軸設計テンダーを3軸に設計変更して製造されました。


しかし従輪がない為、逆推進運転時の速度を低く抑える必要があり、45km/hに制限されてました。 C56牽引イベント列車『SL北琵琶湖号』は、米原⇒木ノ本営業運転後の鈍足回送運転が定期列車運行の妨げになった事が、廃止された理由の一つでした。

【同上】
160両製造され全国各地に配属されましたが、太平洋戦争勃発の1941年に90両が戦時供出され、1m軌間に改軌されて南方に送られました、軟弱路盤を走行可能な軽量機の運命です。 その後、更に2両樺太に供出され、国内残存は68両になり再配置が行われました。

北海道閑散線区や都市部入換機運用もあり、どこが簡易線区か特定が難しいのですが、確実なのは小海線・大糸線・越後線・七尾線・木次線・津山線・山野線で、C12が主役を務めた宇和島線(予土線)などの短距離路線にも多く存在した様です。 C56活躍で有名な飯山線も簡易線区だと思ってましたが、飯山区に配属は1950年代末からの事でした。

国内に残った68両の5年毎の鉄道管理局毎の配属両数で、この号発売時までに20両廃車され、48両が生き残ってます。 札幌管理局内では日高本線・札沼線で運用されており、この2線も簡易線区だった様です。

それでは特集号に掲載された働くC56を見ていきましょう。

木次線のC56です、出雲横田は宍道湖から内陸に伸びる平野が次第に狭まり、山に分け入る手前辺りです。 多分3両編成くらいで、33‰勾配を下り切り松江に向かいます。

吉松駅撮影なので山野線で運用されたC56だと思われます。

高島駅が解らず調べたら岡山県山陽本線の駅がヒットしましたが、横浜臨海線の貨物駅の様です。 当時の横浜機関区に8620と共に、C56148も在籍し、港湾業務に従事してました。(この項、コメント指摘により12/17修正)

地上駅だった頃の札幌駅です、冬場の除雪の為でしょうか、線路間隔が広くなってます。

こうして見るとC56には2コブドームが似合い、コンパクトながら3軸テンダーと合わせバランスの取れたデザインです、一体化ドームではバランスが崩れそうです。

木造駅舎ローカル駅停車中のC56、昭和の匂いが一杯の一枚です。

C56 91がトップナンバーなのはC56 1-C56 90が軍事供出で改造されて海を渡り、還らなかったからです。 海を渡ったC56はこの後紹介します。

タイやビルマ(ミャンマー)は植民地時代にメーター軌間鉄道が敷設されてました。 南方進出を図った日本軍は物資輸送にこのインフラを活用する為にC56を徴用しました。 改軌の他に、木材燃料で走行可能、暑さ対策などの改造が施されました。

終戦で接収されたG56は、その後もタイ国鉄で働き、1964年当時はまだ現役でした。

車齢30年近くで現役だったのは、国鉄の設計が優秀だったからでしょう。 燃料には木材が使われてます、なおメクロン川とは大河メコン川の事です

デフを外したのは前方視界優先の戦時仕様、排障器は線路に進入する家畜対策の様です。

タイで活躍するC56は、国策で駆り出され捕虜収容所長を務め、B級戦争犯罪人として処刑された水谷大尉の遺児が、1958年慰霊訪問した際に撮影した物です。

タイのノンブラドックからビルマのタンビザヤ間415kmの泰麺鉄道を、日本軍は1942年7月から470日間の突貫工事で完成させました、鉄道敷設スピード記録です。 日本軍1.3万人、連合軍捕虜5万人、現地人10万人が投入され映画『戦場に架ける橋』はこの時のエピソードです。 十分な医療施設もなくマラリアが蔓延する工事で、多数の犠牲者を出しました。


犠牲者数は日本軍千人、連合軍捕虜1万人、現地人3万人で、戦後処理東京裁判では『枕木1本につき1人の犠牲者を出した』(実際は100mにつき1人)と厳しく糾弾され、泰麺鉄道建設に係わった将校の多くが戦争犯罪人として絞首刑になる暗い過去がありました。


ではまた。

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