ぼろぼろの時刻表 1966年夏研究旅行 その2
前回は8月5日大曲で商人宿に宿泊まででした、駅前から線路沿いの道を5分ほど歩いた場所の木造2階の古い建物でした。 この時の記憶はありませんが、後年の記憶を合わせると、客室は和室で襖で仕切っただけ、夕食は18時半、朝食は7時に宿泊客全員が1階広間でとる方式でした。 『明日始発で発つので朝食はおにぎりに』と頼めばやってくれました。
研究旅行3日目、8月6日の記憶映像はこの4枚だけです。 朝食後大曲から秋田まで蒸機牽引列車で移動したのは間違いありません。 大曲駅に進入する蒸機が2mほど前を通る際に、頬に感じたムッとする熱気は忘れられない素肌感覚で、俳句にも詠んでます。
俳句には昔の事を現在形で詠むルールがあり、夏の記憶を初冬11月の季語で詠んでます。 頬に熱気感じるのは寒い時期の方が合いますし、許される範囲の演出です。
大曲から乗車した蒸機列車は普通列車だったのだろうと思い込んでましたが、発見した時刻表検証によると、大曲7:58発の急行『おが』でした。 ②の体験は急行『おが』が上り特急『つばさ』と列車交換の為に羽後境駅停車中の出来事と解りました。
羽後境は急行が停車する様な駅でなく、ダイヤ最優先特急の為の臨時停車なのです。 単線路線では現在も日常的に発生しており、毎時特急が走る土讃線等では30分毎に一方が『運転停車』し列車交換してます。 客扱いしないので時刻表表記は通過『レ』です。 交換施設のある駅全てに駅員が常駐してた当時は、停車のついでに客扱いしてたのでしょう。
下り急行『おが』は上野を13両編成で発車しますが、大曲-秋田間は荷物車1両を含め10両編成です。 6-7両分ホームに1等車や寝台車乗降可能に停車すると、先頭の2等座席車2-3両がホームから外れた何もない水田真ん中に停車した訳です、デッキに出て見るとホームがない!、ステップから犬走まで飛び降りるには勇気が必要な高さでビックリしました。
実は進行方向左側に気を取られてたこの時に反対側デッキに立てば、通過する『つばさ』を正面から間近に見られた訳で、58年振りに気付いた事実に残念な思いがしてます。 秋田の8月6日は竿灯祭開催日、2時間弱の乗り継ぎ時間に会場を覗きに行ったと思うのでが、現在なら桟敷席や飾り付けで雰囲気だけでも味わえますが、何にもなかった様です。
小学校社会科で琵琶湖、霞ケ浦に続き国内3番目に大きい湖と習った八郎潟は、食糧増産と農家次三男働き場所確保の目的で、国家プロジェクトとして干拓が進んでました。 大潟村発足翌年、入植開始前年に、地理部の看板背負って八郎潟干拓事業視察は外せません。
【ウィキペディアより】
と言って干拓事業がどこまで進んでるか解らず、視察するには何処が良いかの情報もありません。 国鉄八郎潟駅が湖畔近くにあり、行けば何とかなるの杜撰な計画でした。
秋田から443レ(院内発、大曲8:35)で八郎潟へ、2時間半の視察と昼食後833レ(新津発)で東能代へ移動してます。 干拓事業視察の記憶は全く残ってません、恐らく水路の対岸で行われてる土木工事現場を遠望し、『広大な農地ができるんだ』程度だったと思います。
新津から8時間掛けて秋田まで来る833レも現在では考えられない鈍足ですが、時刻表右端の421レは上野発普通列車で秋田まで17時間です。 上野-秋田間514.4kmの運賃は¥1,660でした。 時間掛かっても急行料金¥300節約の利用者が居たからであり、『時間がゆっくり流れてた時代』と言えます。 また長年¥10固定の初乗運賃が¥20に値上げされてます。
八郎潟乗車列車は青森行でしたが、先着する急行『日本海』乗り継ぎが東能代下車理由でした。 乗り継ぎ1時間を待合室で過ごしたとは考え難く、地理学的に有名だった防風防砂林を駆け足で見に行ったと思われます。 そして鷹巣駅で大ヘマをやらかしました。
鷹巣駅停車をデッキ扉を開けてステップで待ち、10km/h程度まで減速した時にもう大丈夫とヒョイとホームに飛び降りたのです。 しかし慣性力に踏み止れずに転倒、駅員が飛んで来るは部員に笑われるは顧問教師に叱られる大失態になりました。 何の為に急いで降りたかったのか不明、ヘマをして恥ずかしい思いしたから記憶に残ったのだと思います。
急行『日本海』の大館停車時間が9分と長いのは、矢立峠越えの補機を連結するからです。 ④のD51補機記憶は確実でしたが何処で見たか不明でした。 矢立峠なら大館⇒碇ヶ関間、雄勝峠なら新庄⇒院内間のどちらか決め手がなかったのです。
編成表で確認できました、急行『日本海』は大阪⇒新潟間右側が先頭、新潟⇒青森間左側が先頭で運転され、最後尾が2等座席車だからです。 碇ヶ関には客扱い停車しないので運転停車または走行中開放で補機を外したのでしょう。 青森に直行したか、あるいは弘前城へ寄ったかもしれず、その場合は青森着20:24、いずれも弘前駅弁夕食だったでしょう。
列車編成表で1964年9月から1年7ヶ月、2回のダイヤ改正の変化が解ります。 『白鳥』は『信越白鳥』が独立して『はくたか』に、北陸本線富山電化が完成し大阪/名古屋から電車特急が運転開始されてます。 秋田/盛岡行だった『つばさ』は盛岡電化完成で盛岡行電車特急『やまばと』へ、『つばさ』は『白鳥』接続に加えて増発され2本運転です。
【ウィキペディアより】
8月6日は青森ねぶた祭の開催日です。 伝統的祭の観光資源化は何処も同じで、現在は期間中に200万人が訪れ、東京まで進出してると知り驚きました。 次の時代には諏訪御柱祭の木落しが東京の特設会場で行われてもおかしくありません。 まっ、筆者が世を去ってからの事でしょうから、見世物化された御柱祭に苦々しい思いをしなくて済むでしょう。
青森から急行『八甲田』に乗車するので、接続青函連絡船入港少し前、22:50頃に集合時間を決めて解散、筆者以外はねぶた祭を見に行きました。 筆者は青森駅構内に興味があり、ねぶた祭は見てません。 興味深々だったのに記憶が何もないのは残念です。
恐らく入港する連絡船と桟橋マラソン、特急昇格した『ゆうづる』発車を見送り、何よりも連絡船到着貨車と積み込み貨車の入替作業を飽かずに眺めてたと思います。 二つの桟橋に接続する青森駅構内は広大(後年見た風景)でヤード灯に照らされてたと思います。
急行『八甲田』は祭当日夜行なのに呆れるほど空いてました。 連絡船乗り継ぎ客がドヤドヤ乗り込んでも7割程度、ボックス席を2人で使えました。 発車前に牽引蒸機を見に行きました、C61かC60かの単機で、どちらにしても初めて見る蒸機でした。 浅虫停車は覚えてますが野辺地は夢の中、先に奥中山三重連があるとは知る由もありませんでした。
ではまた。











