Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

ぼろぼろの時刻表 1966年夏研究旅行 その1

この時刻表を使い計画した研究旅行の話です。 前年研究旅行は山陰でした、梅雨末期集中豪雨で山陰本線が被災し、復旧見通し立たず中止になり残念な思いをしました。 都立高校部活で女性部員も参加するので、無理もできず費用削減の貧乏旅になります。


山陰研究旅行計画は不明ですが、多分山陰周遊券で急行『出雲』で出発、天橋立に寄り鳥取砂丘、その日は夜行鈍行で下関、翌日萩・津和野と秋吉台、増田辺りの安宿に泊り、次の日出雲大社と松江城を見て『出雲』で帰る、夜行3泊、宿1泊の駆け足日程だったと思います。

個人的には山陰リベンジしたかったのですが、返り討ちのリスクが高く、豪雨災害の少ない東北を選びました、東京発学割が15日間有効で¥4,850でした。 費用を親に負担させる部員を考えると4泊5日、夜行3泊で計画するしかありませんでした。


東北三大祭りは当時から知られてましたが、観光客が何十万人も押し寄せる等と言う事はなく、あくまで地方色豊かな地元民の祭りでしたので、8月4日から8日の日程で組みました。 仙台七夕が最後なので、時計回りに東北を一周する旅程です。

なお復刻版にはないこんな情報も巻末に掲載されてます。 鉄道ファンを除く旅行者に電化区間と複線区間はあまり意味はないと思うのですが・・・。 東北地方を拡大します。

東北本線は盛岡まで電化され、常磐線は草野-岩沼間非電化、奥羽本線は福島-米沢の板谷峠越えだけ電化、他の電化路線は仙山線と仙石線だけです。 電化に続き福島-仙台間の複線化工事が進んでた様子が解ります。 仙台-盛岡間の複線化は完成してました。 また記載されてませんが盛岡-青森間の電化準備と並行し、複線化工事が進んでました。


記憶とは不思議な物で、幾つかの場面が写真の様に結像してるだけで他はスッポリ抜け落ちてるか曖昧です。 これは加齢の為ではなく、記憶とはそんな物の様です。 発見した時刻表を基に、『点』の記憶風景を『線』で結び、長年の疑問解消作業をしてみます。

初日8月4日は上野から山形まで夜行利用だったので、発車時間の遅い急行『蔵王』利用と思ってましたが、時刻表によると急行『蔵王』は運転されておらず急行『第2津軽』でした。入線時間に余裕を取り、上野駅時計前広場に21時集合し、12番線で並びました。

『第1津軽』と『第2津軽』は上下で編成が入れ替わり、乗車したのは下の編成です。 自由席2等車6両中、新庄止り前2両乗車口看板に並び、難なく座席確保できました。 小型目覚まし時計を福島着3:00の数分前にセットして瞬間睡眠、それが特技でした。

人生初の白河の関越え、板谷峠は往路しか通らず、寝てる間に通過では面白くなかったからです。 記憶に残ってるのは福島駅ホーム先端が2両分弱嵩上げせず段着きスロープだった事と、デッキ扉を開放固定してステップに立って手摺を掴み、峠駅通過時にスイッチバックポイント部の雪覆いを見て、『多雪地帯はこうなってるんだ』と思った事だけです。


山形から仙山線始発列車で山寺へ向かったので、『第2津軽』利用が確認できた次第で、『津軽』は後年1本になり、新庄着5時過ぎ時代に業務出張で何回か利用しました。

この時代の仙山線は作並から東は交流電化、西は直流電化、作並で機関車交代の電機運転で、全線交流電化に改められたのは1968年でした。 山形から始発で山寺へ行き、約2時間滞在で山形へ戻りました。 優等列車5本中2本が急行なのは、運転距離が長い準急を急行に格上げした経過措置で、1968年10月のダイヤ大改正で全て急行になりました。

【復刻版1964年9月号 時刻表】
1964年9月には新潟行『あさひ』も準急でした、また当時は普通列車客車編成に1等車併結が普通で記載してなかったのに、復刻版には記載されてます。 一方復刻版には難読が多かった駅名読みが記載されてません、常識が変化した時代に合わせ再編集したのでしょう。

現在朝6時半から8時に参拝できるか解りませんが、当時は可能でした。 山寺の唯一の記憶は崖上のお堂を見上げた1枚だけで、行ってないのは奥の院だけ拝観料が必要で、時間外だったのかもしれません。 コンビニがない時代の朝食どうしたのか?、多分参拝後山寺駅前の土産物屋雑貨店で、パンとコーヒー牛乳で済ませたと思われます。

前に書いた様に古い記憶はスナップ状の断片で、時間や前後関係も曖昧です。 この日の①~③を検証できましたが、④~⑥特に⑥は何処で見たか全く解らず長年の謎でした。


④の羽前千歳駅の島式ホーム1面2線構内線形と新庄/仙台方の両渡りポイント、架線がある仙山線の方が本線の様に感じたのは間違いなく、山寺から羽前千歳で奥羽本線に乗り換えたのだろうと考えてましたが、同駅で列車交換2-3分停車時に見た光景だと思われます。

と言うのは羽前千歳乗り換えは接続が悪く、山形へ行けば8分接続で下り急行『千秋/もがみ』に乗車でき、この列車は羽前千歳通過だからです。 そしてこの急行乗車が⑤の記憶だと解りました。 『場内進行』の運転士指差確認を復唱しながら、運転助士がタブレットを持って運転士の後ろを通り窓を開けて受け器に引っ掛け、出発信号確認を復唱しながら左腕で授け器から次閉塞区間タブレットを捥ぎ取る様子を興味深く見入ってました。


この元準急の急行は典型的な都市間連絡優等f列車で、米沢発秋田/酒田行と仙台発陸羽東線経由秋田/酒田行が新庄で編成半分を交換し、秋田と酒田に向かう列車でした。 単線区間の信号や閉塞方式を間近で見た初めての経験で、鉄道業務の実際を理解できました。

謎だった特急『つばさ』目撃ローカル駅は芦沢か、可能性として舟形もあります。 芦沢の場合、大石田で追い越す普通列車に乗り換え9:56着、舟形は停車で9:51着、1時間15分後の両駅11:02/11:12発列車に乗車してます。 この列車は大石田で新庄10:26発上り特急『つばさ』と交換します。 駅に早目に戻った待ち時間に偶然目撃したと考えられます。


観光地でないローカル駅で所要1時間の見学が何だったのか、全く思い出せません。 地理部は勉強を名目にした実質旅行部だった証拠です。 新庄の駅弁が昼食だったハズです。 新庄盆地北の外れが真室川、ここから院内までが県境の雄勝峠越えです。

駅弁食べて眠くなり、ウトウトして目覚めた駅に転車台と単線機関庫があり、『院内か』と眠りに戻った朧げな記憶には自信なかったのですが、TMSに掲載されたシーナリーガイドK氏の『機関庫』で、院内に機関車駐泊所があった事を知り、正しい記憶と解りました。


この普通列車を湯沢で降りました。 次の列車まで2時間半、湯沢で何を見学したのか記憶がスッポリ抜け落ちてます。 見学で駅を離れた間に下り特急『つばさ』が停車してます。 この『つばさ』を真室川で退避した普通列車で大曲16:48着、唯一の宿泊地です。

復刻版には掲載されてない情報がまだあります、宿泊先案内です。 時刻表巻末に交通公社協定旅館名、日観連加盟旅館名と1泊2食料金、連宅先電話番号が記載されており、旅行日程を決める際の有用情報でした。 宿のHPも検索もできない時代だったからです。


当時の中級以上旅館の宿泊料金は¥1,200以上、¥1,500出せば選び放題だったと解ります。 貧乏旅行高校生がこんな宿に泊まれる訳はなく、交通公社発行『東北』ガイドブック巻末の安宿も掲載されてる案内で、 いわゆる商人宿を予約しました、宿泊料¥800でした。

同じく巻末には若者の貧乏旅の味方、全国公営ユースホステルも掲載されてます。 ここに記載されてない民営ユースホステルも数多く存在し、『夜のミーティング強制参加』などの縛りがない事を条件に利用してました。 料金が非常に安かったからです。

1966年春の宿泊料は1泊2食で¥450、筆者が初利用した1968年2月は¥650、毎年値上げされ、、1971年夏には¥900になってました。 今回はここまでにします。


ではまた。

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