Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

当時の話題の車

鉄道P誌1964年3月号掲載記事からもう一つ紹介します、『わだいのくるま』です。

【前号より転載】


◆名鉄パノラマカー7500系

最初の『わだいのくるま』は名鉄パノラマカー2次増備車7500系です。  1次車は6連3編成しかなく、全特急電車に採用した訳ではなく、あくまで『同じ運賃で国鉄より早い』と言う明解な事業戦略で国鉄と戦ってた名鉄の、顧客サービスのシンボル的存在でした。

【解説文より】
利用者の好評さを受け、名鉄は新たに2次車45両を増備しました。 6連から7連に長編成化されたので、7連6編成と、1次車3編成を7連化する増結車3両です。 時刻表によると予備含めた9編成で、全特急電車がパノラマカーになり、サービス向上になってます。

豊橋-岐阜間100kmを90分弱で走破する車両なので、国鉄中距離電車に準じたシート配列です。 特急料金不要な上に全席自由席でしたから、先頭座席人気が高かったでしょう。

大きな側面窓と2人掛けシート、車内から前方を見通せる開放的車内は国鉄153系準急や急行より居心地が良さそうです。 特急料金なしで乗れるので、好評なのは当然です。

面目を一新したとあるので、1次車とは運転席仕様が異なります。 解説によると、『高速性能向上』、『低重心化』、『回生ブレーキ採用』、『直列高速運転』、『主回路無接点化』など、数多くの改良が盛り込まれており、それが運転席にも表れてるのでしょおう。


◆南海大阪軌道線モ351形

南海大阪軌道線は1980年まで南海電鉄が運営してた大阪南郊の併用軌道/専用軌道の路面電車3路線の総称で、1路線が廃止され2路線は阪堺電気軌道に引き継がれ現存してます。

大正末生まれの木造電車の65年振り更新で、南海子会社の経営で大阪南部/堺の公的交通機関として生き延びてるのは性能と経済性を兼ね備えたモ351形の功績かもしれません。

何の特徴もない機能本位の路面電車です。 阪堺電気軌道の運用車輛歴史によると、モ351形は登場から50年弱の2010年頃に引退した様です。

外観も素っ気なければ車内も必要にして十分以外は何もない、アルミデコラ/アルマイト/ステンレスで統一し一切塗装なしでした。


◆ホキ2000形(国鉄試作貨車)

建設ラッシュの当時、激増するセメント需要で石灰石輸送が増え、トラック輸送に対抗する為に国鉄が試作した石灰石輸送用65t積大型ホッパー貨車、ホキ2000形が紹介されてます。 結局国鉄の目論見は外れ、試作に終わりました。 検索すると、JR貨物が2011-2012年に42両製造した35t積ホキ2000形がヒットし、この試作貨車は歴史から消えてます。

運炭列車のセキが30t積でしたから65t積は2倍以上です。 車長はセキの1.5倍、背を高くして積載量を増やしてます。 自重含めた総重量は軽量蒸機並み、2軸ボギーの軸重超過を回避する為、3軸ボギーではなく、2軸中間台車を追加し2-2-2の軸配置にしてます。   

解説文によると6輪でも丙線区の線路規格を越え乙線区規格に合わせた設計です。 国鉄が自動車交通発達で貨物輸送王者の地位を守ろうとした努力の一つだったのでしょう。 秩父の武甲山は全山良質な石灰岩で、採掘され秩父鉄道、八高線で首都圏へ輸送されました。


武甲山は中学時代のハイキングで正丸峠へ行った際、西に聳える堂々とした山容に見惚れ、いつか登りたいと思った山でした。 その夢を1965年末、高校1年の冬休みに叶えました。 雪の心配はないにしても冬期単独登山、しかも夜間登山の計画でした。

【武甲山登山時使用地図】
熊谷から秩父行終電で秩父着23時過ぎ、国道を横瀬まで歩き、東北東稜からの登山ルートを選びました。 横瀬から見た星空バックの武甲山の黒い塊は迫力満点、これ見てから登りたかったのです。 ヘッドランプ点けて登頂開始、頂上まで200m標高差地点に『立入禁止』看板がありました、登山道が発破で爆破され採掘現場と化して消滅してたのです。


藪がなかったのを幸い、樹林帯を採掘現場崖を迂回して攀じ登り、1366m山頂に2時半着、防寒具着込んで山頂下の神社で風を除け、湯を沸かしてコーヒーを淹れ、足元の秩父の夜景を眺めて夜明けを待ちました。 帰りは稜線伝いに縦走して伊豆ヶ岳を越え正丸峠から国道に降りて吾野から西武線で帰宅しました。 ストイックな山男時代の思い出です。

【ウィキペディアより】
武甲山の石灰石採掘はその後も続き、ついには頂上付近も発破で採掘され、昔の面影のない姿に変貌してます。 頂上はかなり低くなってます、元は左右の樹林帯稜線の延長線上が頂上でした。 前回山の形は50年や100年では変わらないと書きましたが、人間が自然を改変した例として紹介しました。 日本に百名山に入ってる様ですが、今の姿では疑問です。


ではまた。

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