1964年 全国鉄道ニュース 首都圏編
このシリーズは私鉄ニュースを先に、国鉄を後にしてきたので、今回もそれに倣い、最初は沿線で生まれ育った東急からです。
現在の『二子玉川駅』当時の『二子玉川園駅』(2000年改称)で捉えられた東急車輛製ステンレスカーのルーツ5200系です。 東急車輛がライセンス供与を受けたステンレス車両製造に当り、5000系(青ガエル)設計流用で1編成3両試作した形式です。 5000系の丸味を帯びたデザインはステンレス加工に馴染まず、何とも珍妙な外観になってます。
写真反対ホーム奥には玉電渋谷行と砧本村行ホームがあり、手前は上下線が1本になり国道246号線二子橋を併用軌道で渡ってました。 鉄橋を作り併用軌道を廃止して高架駅になったのは2年後1966年です。 大井町線から田園都市線に改称されたこの路線は、田園都市線の新玉川線・半蔵門線直通運転開始に伴い、再び昔の大井町線に戻ってます。
東急車輛最初の量産型ステンレスカーは6000系、カルダンドライブの軽快な走行音と、回生ブレーキ作動音が新時代電車を感じさせてくれました。 次に量産された7000系がステンレスの特徴を活かしたスマートな外観で好きな車両でした。 4連+2連の急行運転です。
物心付いた頃から渋谷駅を利用し、何回か改修されたので、いつの改修か解りませんが、線数3本はそのままに、長編成化対応に併せ、櫛歯状ホーム乗降分離で混雑緩和を図る改修だと思います。 ホーム中ほどに山手線乗換え可能な出入口も新設されました。
副都心線開業で東横線は地下深く直通運転になり東急渋谷駅は姿を消しました。 出口正面階段上れば地下鉄銀座線、左手跨線橋上れば山手線乗場で、便利な乗換駅でしたが、地下駅は一度行って懲りました、現在の東急渋谷駅は他路線乗換え機能を放棄した様です。
渋谷駅改修工事と並行して進んでたのが営団日比谷線乗入に伴う中目黒駅改修工事です。 霞ヶ関-恵比寿間開業2ヶ月前、日比谷線乗入開業半年前の姿です。 現在は桜の名所になってる目黒川は当時工場街のドブ川で、その河畔からの撮影画像です。
その2ヶ月後、工事は進んでます、東京オリンピック開催に間に合わせる目標達成の為の突貫工事です。 元々中目黒駅前後約1kmは目黒川が侵食した谷を越える高架区間で、中目黒は工場街環状6号線交点の小さな駅でした、そこが2面4線終着駅へ大出世です。 新築でなく改修、東横線運転しながらの工事で、1面2線を営業運転に使ってます。
営業運転使用ホームから渋谷方の眺め、出発信号機の先は目黒川橋梁です。 その先で上下線が開いてるのは、この間から日比谷線が地上に出てくるからです。 駅舎・ホーム建設だけでなく、渋谷方面橋梁架け替え、間に日比谷線2線橋梁架橋し、1日の運休もなく4ヶ月後に完成させたのはスゴイ事です。 中学3年だった筆者は工事進捗を見守ってました。
翌年鉄道P誌表紙を飾った中目黒駅渋谷/恵比寿方です。 7000系急行が新たに急行停車駅になった中目黒で日比谷線3000系に接続して同時発車した処です。 東横線上り線は日比谷線を挟み一番外側に付け替えられてます。 反対側に電留線3本が作られました。
この写真から35年後の2000年にこの場所で『日比谷線脱線衝突事故』が起こり、多数の死傷者が出ました。 それから更に24年、17m車6連だった中目黒駅は20m車10連に拡大し、工場街だった環状6号線沿いにはオフィスやマンションが立ち並び様変わりしました。
東急の話に熱が入り過ぎました、次は京王帝都電鉄です。 東急車輛製造ステンレスカーで一番市場評価が高かったのが、京王井の頭線用に製造された3000系で、正面上半分のカラーリングが斬新でした。 1962年から1963年末までに、第3編成まで増備されてます。
1964年3月に第4編成が増備され、結局1991年まで30年近い長きに渡り、29編成製造されました。 現役引退後は地方私鉄に譲渡され、松本電鉄でもMT編成が活躍してます。
高幡不動と多摩動物園間2kmを結ぶ多摩動物園線が開業してます。 家族で動物園や水族館へ出掛けるのに自家用車利用はほとんど考えられない時代で、鉄道会社は行楽施設を作れば、アクセス交通手段をセットで提供する必要がありました、5000系2連です。
続いて小田急からです。 NSE車投入で慢性的特急用車両不足に悩んでた小田急も、ようやく余裕ができた様で、車両運用をやりくりして日祭日新宿-江ノ島を結ぶ特急ロマンスカー3本の運転を始めてます。
江ノ島から鎌倉へ接続する江ノ電は、当時ポール集電の専用軌道路面電車でしたが、パンタ集電への切り替えが始まってます。
私鉄編に入れるのどうかと思いますが、神奈川臨港鉄道開業に向けたDL完成ニュースです。 同時代DD51やDE10の技術を取り入れて、DD13より少し強力なDLだと思います。
私鉄編最後は???でした、『変貌する川崎付近』とありますが、大きな工場も写っておらず、とても川崎付近とは思えません、しかも市電と蒸機です。 調べると先日紹介した風間克美さんブログに行き当たりました。
◆地方私鉄1960年代の回想 SLが走った市電
この記事によると、市電1435mm軌間に1067mm軌間3線式区間が一部あり、工場引込線へ貨物輸送するC11との交換風景が1964年3月まで存在してたと解りました。
国鉄からは蒸機の話題です。 新金線は新小岩-金町間を結ぶ貨物専用バイパス線で電化されておらず、東京下町をD51牽引貨物列車が走ってました。 この年電化される事になり新小岩操車場にポールが立ちました。 9月完成はオリンピックを意識したのでしょう。
東京23区内に蒸機が健在だったとは言え、さすがに山手貨物線に10年振りに現れたD51は珍しかった様です。 撮影地は渋谷駅、右山手線、左改修中の東急渋谷駅です。
113系は111系の主電動機出力アップ型、クハ、サハ共通なので、111系二次型とした方が良かった形式で、111系/113系で3,000両近く製造され、山岳区間用115系と共に、50年間直流電化路線の輸送を支え続けました。 東海道本線、横須賀線から投入されてます。
季節臨電とあるのは海水浴臨時列車です。 確か品川始発で、品鶴貨物線経由で運転された列車で、東海道へ101系進出のタイトルは不適切です。
101系改の103系も最初に中央線と山手線、遅れて京浜東北線、さらに遅れて常磐線に投入されました。 総武線は長く山手線お古の101系で放置されたままでした。
大都市人口集中で通勤圏が拡がり、ドーナツエリアの非電化路線にもその波は及びました。 乗降性に優れた両開き3扉気動車が必要になり、開発されたのがキハ30系です。 低いローカルホーム対応で車内側にステップがあり、キハ20系は扉部分車体を下に張出してますが、幅広3扉なので外吊り式扉を採用し、国鉄車輛では独特な外観になりました。
合理的と言えばその通りなのですが、『人を運ぶ箱なんだから、これで良いでしょ』と言わんばかりの安作り設計で、個人的にはキハ81と並び好きになれない形式でした。
ではまた。






















