Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

現代に生き残った軽便鉄道

1900年代初頭、明治末から大正にかけて、官営化前の鉄道会社路線から外れた町の有力者や鉱山経営者が出資し、建設許認可を取り易かった軽便鉄道が全国各地に建設されました。 歩行や馬車に頼ってた移動運搬手段の機械化は、新時代を実感する象徴でした。

【写真展案内葉書】・・・2018年10月
それから半世紀、昭和30年代(1955年-1964年)に入ると、バス路線発達や設備老朽化更新に小資本が耐え切れず、次々と姿を消しました。 その様子を風間克美さんが克明に記録されており、写真集『地方私鉄1960年代の回想』を所蔵してます。

【写真展展示作品より】
象徴的なのがこの作品『遠州鉄道奥山線最後の日』です。 762mm軌間軽便鉄道で、遠鉄浜松がら内陸部を結んでましたが、1964年10月、新幹線開業の月に全廃されました。 この遠州鉄道を始め草軽電鉄等、大部分の軽便鉄道が1960年代に姿を消し、鉄道ファンの間では1970年代まで生き残った沼尻鉄道や木曽森林鉄道が貴重な存在になってました。


そんな状況下で、必死の経営努力で存続を図った軽便鉄道を以前拙ブログで紹介しました。 『栗原鉄道』です。

【過去記事より】
大正年間に東北本線と『オラが町』を結ぶ鉄道として敷設され、その後細倉鉱山の大発展により延伸し、激増する鉱石輸送対応で電化、国鉄線積み替えロス回避で改軌してます。

【過去記事より】
鉱山閉山後は、老朽化した電化施設を更新せず、非電化第三セクターとして存続を図りましたが、資金難で2008年廃止されました。 今回紹介するのは、幸運に恵まれ生き延びた軽便鉄道、四日市鉄道の話です。

【四日市鉄道】・・・ウィキペディアより
1913年に四日市鉄道が海辺の市街と湯の山温泉を結ぶ軽便鉄道として開業し、観光路線だった事が存続した大きな理由でした。 四日市鉄道は、三重電鉄を経て近鉄傘下に入り、近鉄湯の山線として今日に至ってます。 その転換点、改軌が1964年でした。

1964年3月から762mm軌間を一気に倍近い1,435mm軌間へ改軌し、近鉄車両乗り入れ可能にする工事で、運休せずに実施されました。 同時に直流1,500Vの昇圧をしてます。

改軌1年半前の762mm軌間電車の運転風景です。 3連で1M2Tなのは勾配が緩く、満員になる事もなかったからでしょう。

改軌を1ヶ月半後に控えた近鉄四日市駅の様子です。

改軌前日の湯の山線、運休なしなので、線路が4本敷設されてます。 改軌後に夜間工事で762mm軌間線路を徐々に外したのでしょう。

開けて3月1日の出発式、まだ三重電鉄だったので処女電車は近鉄旧型譲渡車の様で、今一つ華やかさがありません。

使わなくなった762mm軌間付随車が駅構内に放置されてます。

改軌に合わせ作り直された終点湯の山駅、近代的な佇まいです。

改軌5日後にもまだ762mm軌間線路が残ってたとあります。 多分近鉄車両だと思いますが、出発式にこの編成使えなかったのでしょうか。

近鉄が三重電鉄を傘下に収めるのは既定路線だった様で、改軌実施後すぐに名古屋から直通準急を運転してます。 前写真はコレだった様です。

近鉄四日市駅で改軌された湯の山線電車と、ナローのままの三重電鉄八王子線電車のツーショットです。 この八王子線がどうなったか気になり調べました。 近鉄が商品価値のある湯の山線だけ手に入れ、三重電鉄八王子線はこの数年後に廃線と予想したのですが。

【四日市あすなろ鉄道】・・・ウィキペディアより
近鉄は三重電鉄3路線を傘下に収め、つい10年前まで八王子線と内部線を762mm軌間のまま直接運営を続けてました。 開業100年の2013年には近鉄が廃線とBRT化を四日市市に提案し、四日市市の鉄道存続の要望を受け、『四日市あすなろ鉄道』として存続してました。


ではまた。

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