1964年 アナザ・ストーリー
新幹線や大都市圏新線の建設や開業が相次ぎ、新造船で青函航路輸送力を増強した1964年、これらの華やかで今に語り継がれるニュースの影には、忘れ去られたアナザ・ストーリーがありました。
国鉄浜松工場が新幹線保守点検拠点に生まれ変わる為に、蒸機点検修繕の役目を終え、最後の修繕蒸機を送り出したニュースです。
入庫してたのは富山機関区の49608機です、蒸機は摺動部が多くある走行機械なので、定期的に検査し摩耗部品を交換する必要がありました。
簡単な検査や修理は機関区で行いますが、数年に一度の全検や大修理は国鉄工場で行われてました。 国鉄工場は全国に27ヶ所に置かれており、中部地方は新津、長野、浜松、名古屋にありました。
富山区所属の49608はデフなしで、高山本線はC58/D51の持ち場だったので、入換機運用だったと思います。 長野でもなく、何故名古屋を通り越し浜松工場だったのかは謎です。
50年続けてきた仕事の終了、従業員全員で見送る出発式です。 浜松工場は豊川に分工場を持ってたので、無煙化の11年前に蒸機整備業務を終了し易かったと思われます。
出発式には国鉄関係者の他、メディアも出席した様です。 廃止路線の『さよなら電車』の様な、華々しさの中に寂しさのある光景です。
浜松工場1番線を離れた49608機はどのルートで富山機関区まで帰ったのでしょうか?。 浜松-名古屋-岐阜-富山が最短ルートですが、新幹線開業前で輸送密度限界に達してた東海道本線は、定期列車で満杯で修理上り蒸機単機回送の余裕は全くありませんでした。
浜松工場入りする時も同様で、富山⇒浜松ルートを自走あるいは牽引されてに関らず、同じ問題があります。 前に書いた様に何故浜松工場を選び、どう移動したか疑問なのですが、筆者推理は以下の通りです。
【静岡-豊橋間1980年代学習地図より】
超過密ダイヤと言っても普通列車運転密度には差がありました。 中京圏は豊橋-大垣で、関西圏北端米原と大垣間は普通列車運転本数が少なかった様に、静岡から焼津・藤枝・袋井・掛川・磐田の諸都市を経た浜松と豊橋間には市が一つもなく、40km弱の区間に蒸機単機回送のスジを引く事は可能だったと推定できるのが根拠です。
豊橋から飯田線、電化路線を逆推進走破は考え難いので、電機牽引貨物列車に通過貨車扱いで辰野まで回送されたのでしょう。 辰野から中央東線、塩尻から中央西線で多治見まで単機回送、多治見から美濃太田へ抜けて高山本線へのルートです。 翌1965年機関車配置表によると、49608機は美濃太田機関区在籍で、修理上りで転籍させたのかもしれません。
★その後の49608機
筆者が一人旅を始めた頃、9600は北海道、九州を中心に200両近く現役で、東京近郊では大宮機関区所属機を川越線で見る事ができました。 しかし1969年機関車配置表に49608機はなく、美濃太田機関区にはC58と共に、DE10、DD51が在籍してました。
富山機関区には9600が9両在籍してましたが、そこにもなし。 機関車履歴で調べると1969年10月に名寄で廃車されてました。 浜松工場修理完成後5年、次の全検を受ける事なく、現役の幕を閉じてました。
ではまた。







