Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

最後の青函連絡新造船

1960年代は経済発展に伴い本州-北海道間の貨客輸送量も伸び続けてました。 その需要増加に対処するには、増便か連絡線の大型化しかなく、津軽丸級が新造されました。

津軽丸に続き、八甲田丸、大雪丸、羊蹄丸、摩周丸、十和田丸、松前丸の同型船が次々就航し、旧型船を置き替えて輸送力が増強されました。

青函連絡線は多数の死者を出した洞爺丸事故の苦い歴史があり、当時の最先端船舶安全航行技術を駆使して建造されました。

筆者は1968年から1977年頃までの6回渡道全てが連絡船利用で、津軽丸型に乗船してます。 海上100km余を所要4時間、揺れを感じる事はほとんどありませんでした。

初乗船1968年は『ゆうづる』で青森朝着昼行便に乗船、函館接続の急行で札幌着午後6時頃、東京から20時間の旅でした。 1969年は『おおぞら』に乗る為夜行便利用でした。

8,000トン級に大型化された津軽丸の機関は1,600PSx5基です。

1等指定座席の様子、写真では解りませんが、船室エリア最上階にあり、窓から外の景色を良く眺められました、勿論利用経験ありませんが。

同じ1等でも座席指定料金不要、運賃2倍の1等自由席もありました、こちらは窓も写ってます。 長編成急行列車で1等車2両連結されてる場合は、1両が指定席、1両が自由席でしたので、それに倣ったのでしょう。 定員1,200人で216席の1等は約1/6です。

2等指定席もあり、夜行便利用時に¥100か¥200の指定料金を払って1度だけ利用しました。 2等普通席は乗船口階とその下の階にあり定員660人、おおよそ30畳のカーペット席でした。 カーペット席壁際に荷物入れが設置されてました。


列車が到着するとカーペット席の良い場所を求め、船酔いに弱い人は下の船室へと、荷物を抱えて走る『桟橋マラソン』が現出しました。 接岸後も接続列車の座席を求めて『桟橋マラソン』が行われました。

津軽丸車輛甲板は貨車48両を収容できました、長大貨物列1編成分です。

貨車搭載後に車輛甲板後部扉を閉める珍しい写真です。 貨物輸送は連絡船大型化でも追い付かず、貨車輸送専用船も運行されてました。 民間企業の青函フェリーによるトラック航送も始まってました。 青函連絡船貨物輸送は1971年がピークで、その後減少しました。

航空機の様な緊急時脱出シュートを装備してました。

これは見た記憶があります、勿論乗客乗員全員分装備です。

乗客は1973年がピークでした、早大探検部知床半島縦走記の山岳雑誌掲載を機に、大学生に『北海道ブーム』が起こりました。 1970年に国鉄が始めた『ディスカバー・ジャパン』で加熱しましたが、団塊後期世代が社会人になると潮が引く様に減りました。 1975年の蒸機全廃も影響したでしょうし、若者がリッチになり航空便利用に流れた結果です。


国鉄の青函連絡船利用客回復策は実らず、分割民営化時にJR北海道に引き継がれました。 翌1988年の青函トンネル開業で青函連絡船は歴史の幕を閉じ、青森港と函館港埠頭に記念館として『JNR』マークを付けて保存係留されてます。


ではまた。

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