還暦を迎えた新幹線
今月は新幹線開業60周年の節目になりますが、記念イベントのニュースは聞いてません。 60年前の春は新幹線の話題で持ち切りでした。 輸送力増強が限界に達していた東海道本線の問題解消もありますが、東京-大阪を3時間10分、在来線の半分以下で結ぶ世界に誇る高速鉄道が、オリンピック直前に日本にできる高揚感に湧き立ってたのです。
【梅小路付近の試運転列車 1964.4.28】
現在の様に『環境配慮』とか『景観権』の概念さえなかった時代ですから、新幹線建設反対運動が報道される事はありませんでした。 振動・騒音・日照に懸念を持つ住民が居ても、声を挙げられない雰囲気が世の中を支配してました。
建設工事が難しいのは都市部です、東名高速がない時代、京浜間の動脈第2京浜国道を跨ぐ架道橋が開業半年前に一晩で架橋されてます。
多摩川では東急東横線と現在横須賀線が走る当時の貨物品鶴線の間で新幹線架橋工事が進んでました。 国鉄の貨物輸送は凋落しましたが、山手線をほぼ一周してた貨物線は現在旅客輸送に大きな役割を果たしてます。 この多摩川鉄橋鶴見側に大操車場がありました。
現在貨物列車は都心に乗り入れず、中央本線上り貨物列車は国立の先で武蔵野線方面へ向かいます。 武蔵野線沿線に新しい操車場があり、貨物は都心を迂回してる様です。
3月末に米原-鳥飼の線路敷設が完了し、冒頭の試運転が始まりました。 この敷設完了区間の空撮写真が掲載されてます。
【瀬田川橋梁】
湖東線南端、60年前の摂津鉄道の世界なら、さもありなんの風景です。
【向井町架道橋】
京阪間ですね、一面に水田が広がり高い建物が全く見えません。 先日紹介した山崎付近を走る特急『みどり』も田植え風景でしたから、驚くには当たらないのでしょう。
【過去記事より転載】
京都付近は1年前に完成しており、阪急が高架工事の間に新幹線線路を借用して営業運転した話を以前紹介しました。
【大阪車両基地】
新大阪から東京に向かって発車してすぐ見える車両基地は、本線をオーバークロスする橋脚だけできてる状態でした。
新大阪地区も完成、新横浜ほど田舎ではありませんが、大都市表玄関とは思えない周囲の風景です。
営業用車両も着々と完成してました、川崎車輛工場での撮影です。
新幹線建設は国を挙げての大事業でしたから、車両製造も多くのメーカーが関わってました、日本車輛製完成車の出荷風景です。
0系新幹線電車は注目を集めました。 開業時は速度を抑えて4時間10分運転、後に3時間10分運転に移行しましたが、走行中の振動がかなり大きかった記憶があります。
こちらが運転席、信号機は設置されず集中制御の車内表示で表示パネルが並ぶ、新時代の鉄道車両でした。
初期の東海道新幹線の振動が大きかったのは台車の性能と言うよりむしろ路盤構造が原因ではなかったかと思います。 開業直後の上越新幹線乗車時に滑る様に走る振動の少なさに驚かされました。 東海道もその後改良され、滑る様に走行する様になりました。
車体幅が広がって1等車座席は横方向のゆとりができました。
2等車は2席3席の横5人掛けです。 これは日本人の体格に合わせた航空機的発想で、鉄道の世界標準から外れたまま現在まで継承されてます。 ドイツ国鉄DBとノルウェー国鉄の乗車経験がありますが、ローカル列車普通車でも2席2席の4人掛けです。
開業時は食堂車とビュッフェが連結されてました。 食堂車は座席部分を壁で仕切って窓際に通路がある独特な構造で、行列ができると通り抜けに苦労しましたが、数年で姿を消しました。 一度だけ利用しましたが、日本食堂標準の味で値段が超特急でした。 食堂車の後を追う様にビュッフェも姿を消しましたが、何時頃だったかは記憶にありません。
新幹線で何が変わったのでしょうか、輸送力増強と移動時間の短縮、一方で労働環境の悪化も引き起こしました。 東京着22時台の空いた新幹線車内で、3人掛けシートを回転して肘掛を跳ね上げ、くの字になって仮眠する同類のサラリーマンを見掛けました。
【1964年9月時時刻表】
新幹線開業前151系特急が東京-大阪間を6時間半で結びビジネス特急と呼ばれてましたが、業務出張で使えたのは、午前仕事して午後帰る、あるいは午後移動して翌日の仕事に備える幹部だけで、経済発展を支えた働き蟻企業戦士は、往復夜行移動が一般的でした。
新幹線開業前は東京-大阪間に11本の夜行寝台急行が運転されてました。 新幹線開業で19時半まで仕事しても同日中帰宅が可能になった訳です。 拘束時間は減っても体力的にキツク、過重労働を強いる側面もありました。 爾来60年、勤労者の意識変化と労務管理の変化により、夜行列車利用の業務出張は昔語りになりました。
ではまた。

























