Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

70年前の湖東線界隈

★ナローは人気薄?
HOn2 1/2レイアウト設計はストラクチャとシーナリー設計が未完ですが、構想を練るのに時間が必要なので、まとまったら改めてとします。 ナローは人気薄で、前回の記事タイトルはTOMIX/KATOの転車台制御は間違ってる!』にしてたら、アクセス倍でしたね。


70年前言えば読者の皆さんのほとんどが生まれる前、筆者は4歳で人生の記憶が始まった頃です。  中学時代に立ち読みして煩がられた鉄道F誌や鉄道P誌には、つい10年前の事として70年前の写真が掲載されてました。 湖東線界隈の70年前を拾ってみました。


湖東線とは東海道本線米原-京都間の俗称で、琵琶湖東岸を走る事からそう呼ばれてました。 後年北陸方面バイパスルートが開通した際、湖西線と命名されたのは湖東線との対比で他の選択肢はなかったと思います。

最初の写真は1954年6月の東海道本線上り貨物列車、撮影地は米原駅北端とあります。 これから関ケ原越えに向かう処で、盛んに煙を吐いてます。 遠景でシルエット判断難しいですが、牽引機はD52と思われます。 沼津から西進した直流電化は当時大垣まで、米原-京都間電化で、東海道本線全線電化完成は2年後1956年でした。
 

2枚目の写真は同年同月米原駅構内の上り特急『つばめ』、構内と言ってもホームを出外れた北方と推定されます。 『つばめ』は青大将になる前で、牽引機はC62です。


『つばめ』の右隣が下り本線、その右には貨物側線が並び、多くの貨車が停車してます。 画枠外の左には北陸本線とその貨物側線が並んでたのでしょう。 国鉄は戦後興で増大した貨物輸送の王者、関西から表裏日本の分岐点米原を膨大な貨物が通過した時代でした。

これも1954年6月撮影の大津付近、長閑な田園風景の中を走る京阪電車です。 変わらないのは背後の山並みの稜線だけ、70年の時間の流れで辺りの風景は一変してるでしょう。


『湖東線』の呼称はTMSから学びました。 山陰本線の峡谷美を取り入れたレイアウト製作で思い悩んでた若き国鉄マン摂津鉄道S氏が、『湖東線緩急車から見た風景から、見慣れた風景の中にこそ日本の美があると気付いた』と述懐されてたからです。 恐らく1960年代の初頭、草津か近江八幡付近で基本構想が固まった摂津鉄道の聖地なのです。

最後の1枚も何故か同年6月、山科付近で撮影した下り貨物列車です。 下りがこの向きなら北から南向きに撮影してます。 手前の水田では田植えの最中です。 今は水田の痕跡さえない市街地になってるでしょう。


蒸機全廃から来年で50年、現役時代を知る人はどんどん減ってます。 その次は国鉄時代を知る人が減ってゆき、鉄道趣味自体も時代と共に移り変わってゆくのでしょう。


ではまた。

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