鉄道P誌1963年10月号 C62特集
北海道遠征帰宅直後急用ができ、21日/22日と泊りで出掛ける仕儀になりました。 遠征記その4を予約投稿しましたが、バタバタしてて公開時間ズレに気付きませんでした。 写真整理時間もないので、ストックの2C2軸配列国鉄蒸機特集のトリC62を公開します。
【前号より転載】
言わずと知れた国鉄最大最強力の蒸機ですが、もう一つ最速でもありました。 国鉄蒸機の最高速度125km/hの記録を持ってます。
戦後の旅客用蒸機不足問題を少ない投資で解消する為に、D52上回り、テンダーにC59下回りを組み合わせて誕生した形式です。 D51上回り、テンダーにC57下回りを組み合わせたC61と同じD⇒C改造で、1948年1949年に49両生産されました。
蒸機時代最後を飾った花形なので人気が高いのですが、筆者はデカさに圧倒されても格好良いとは思えず特に好きではありません。 狭軌世界最大・最強の肩書は、マイナーリーグ三冠王よりメジャーリーグレギュラーの方が偉いと思ってるので響かないのです。
大きな要因は限られた条件下の改造で、ボイラー中心がD52より80mmも高くなり、その結果の極短煙突とペシャンコドームです。 国鉄近代型蒸機の中でC57(一次型)はスレンダー美人、C61はグラマラス美人だと思ってますが、C62には体重200キロ越え力士や身長2m越えプロレスラーに感じる人間離れした醜怪さを感じるのは筆者だけでしょうか。
それはさておき1953年7月20日、最後の蒸機『つばめ』とあるのは、浜松駅発最後の意味で、名古屋までの電化が完成したからです。 C62の特急『つばめ』牽引区間は翌日から名古屋-大阪へ、更に米原-大阪へと短縮し、1958年東海道本線全線電化で終わりました。
1960年3月19日、上り『さくら』の名古屋駅到着なので、名古屋以西蒸機牽引時代です。 実際には岐阜、大垣と電化区間は少しづつ伸びてますが、最速特急機関車交替を都度実施する事はせず、浜松、名古屋、米原と約100kmの蒸機1仕業区間単位で短縮してます。
次の中継点米原機関区で休むC62です。 個人的好悪は別にして、圧倒的な迫力と存在感があるのは間違いありません。
京都-大阪間の特急『つばけ』、電化された大都市近郊を蒸機牽引特急列車が走った最後の時代です。 首都圏なら松戸、柏辺りでしょうか。
回送中の『かもめ』ですが、3線回しの方向転換かもしれません。
C62は登場後特急牽引機の座をC59から奪ったので、特急ヘッドマーク付けたC59写真は古い物がわずかに残るだけです。 しかし東海道の王者の座は電化により10年で終わり、山陽の王者として6年間延命しました。
この号の中央見開き写真は特急『かもめ』、福山の大阪方福山-大門間で、撮影日は1960年1月27日、非電化複線です。
特急『かもめ』の福山付近写真が3枚続きました。 前写真時点では上郡までだった電化区間が、1年8ヶ月間に倉敷へ、更に三原へと西進し、福山駅に架線が張られてます。
電化前山陽本線の特急牽引はC62が独占してた様ですが、他の優等列車と普通列車はC59と共通運用だった様です。 下関発大阪行普通列車224レ牽引のC62です、ちなみに電化後224レ所要時間は15時間です。
同じく下関発岡山行普通列車226レ牽引のC62です。
広島電化が完成し翌年全線電化、山陽本線で特急『はやぶさ』を牽引する最晩年のC62の姿です。 電化後は呉線用の数量を残し北へ去りました。
ここでC62配置を見ます、1948-1949年登場時は静岡から下関の東海山陽路に41両配置、C60の項で述べたC59配置の様に、戦後路盤強化された東北本線福島以南と常磐線上野-水戸間にも8両配備されてます。 山陽本線電化完成前年、15年後1963年の配置は・・・。
西進する電化に追い詰められ広島と下関に23両です。 C59の様に九州には足を踏み入れなかった様です。 廃車はまだなく残り26両の19両は常磐線、7両は北海道です。 何故C60もC61も渡らなかった北海道をC62が走れたのでしょうか。 理由がありました。
C62はC59を上回る強力機として登場しましたが、東海山陽路で活躍できるのは15年程度と見えており、設計時点で軸重軽減で乙線区転用可能な方策『軽量化』が盛り込まれており、1949年の早期に20両に実施されてました。 電化に追われ全国を転々とさせるより、電化計画のない北海道で最後の華を咲かせてやろうと考えてたのではないかと思います。
はC62の
東海山陽路王者の地位を失ったC62は常磐線王者になりました。 客車時代『はつかり』の仙台以北はC61でしたが、上野-仙台間はC62の持ち場でした。 平電化で北に追い詰められましたが、電化直前の冬に特急『ゆうづる』乗車経験があちます、ナハフ座席車でした。
岩沼-亘理間東北本線から常磐線が分岐してすぐ、阿武隈川の長大鉄橋を渡る姿です、その後電化されましたが、東日本大震災で大きな被害を受けた場所です。 では北海道です。
この時代は北海道にC62が配備されたとは言え小樽築港に7両だけ、しかも長万部-小樽間重連運転なので、函館-札幌-釧路/網走を結ぶ急行列車の旭川までが持ち場でした。
この様にC62重連運転は当時日常風景で、沿線にカメラ砲列ができたのは無煙化が迫った1970年代前半の事です。 無煙化から11年、民営化前年に静態保存機動態復元運動が始まり、民営化後の1988-1995年に『SLニセコ号』復活運転が行われてるので、この時の姿を目にし、写真に収めた方も多いのではと思います。
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倶知安駅でのC62重連急行同士の列車交換、遠い昔の夢の風景です。
ではまた。