Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

1950年代末の鉄道風景

拙ブログでは著作権期限満了した昔の鉄道雑誌を紹介してます。 それを楽しみにしてくれる読者も居る様です。 在庫減で調達したバックナンバーから一番古い物を紹介します。 

【鉄道P誌1959年12月号表紙】
64年前です、筆者は小学生でした。 物心が付き当時の記憶を持つ方は70歳、ほとんどの読者が知らない遠い昔の話です。 東京タワー完成、現上皇様の結婚で白黒TVが普及し、東京五輪開催も決定して、街から『戦後』の匂いが薄れつつある、そんな時代でした。


◆東海道本線準急の話
表紙は準急『比叡5号』1959.06.11山科付近の撮影です。 『比叡』は関西-中京間の準急で、東京-中京間は『東海』の担当エリアでした。

1964年9月時刻表から朝東京発の東京-名古屋間優等列車を拾ってみました。 特急を別格にすると、急行と準急は共に153系でサハシ連結の有無しか差がありません。 所要時間差20分で利用料金が倍違います。 名古屋で4分差に迫られた『東海2号』は『六甲』を待避する事なく終着大垣へ先着してます。 準急は中距離大都市間交通に重宝されてました。


◆全国各地の鉄道風景
十年一昔と言いますが、一人旅を許された高校進学の6年前、本格的旅を始めた時からほぼ一昔前で、始めて知る内容が色々ありました。 それでは北から見ていきます。

【釧網本線 浜小清水付近 1959.03.24】
写真を見ただけで何度も訪問経験があるのでどこだか解りました、でもキハ03が走ってたとはね。 寒冷地仕様のレールバスです、キハ01/02を含めて遭遇経験はありません。 

【夕張鉄道 錦沢-平和間 1959.02】
煙室扉に22号機のプレートが掛かってます、国鉄9600型の私鉄在籍機です。 牽引してるのはおそらく運炭列車でしょう。

【札幌市電 西五丁目 1959.07.06】
路面電車の方向幕を拡大したら北二十四条とありオオッとなりました。 初渡道1968年から何回も利用した路線だったからです。 地下鉄開通時に全廃されてたと思ってた札幌市電は、一部区間が現存する様です。

【日光線 今市 1959.03.11】
電化直前の日光線蒸機列車牽引機は宇都宮区のD51です。

【日光線 今市-日光間 1959.03.11】
キハ55系準急『日光』号です。 この列車登場後東武との間に日光戦争と呼ばれる旅客争奪戦が始まりました。 現在はどうなのでしょうか。

【東北本線 蓮田-白岡間 1959.09.23】
東武ロマンスカーに対し国鉄は、東海道本線不定期特急『ひびき』にも運用された151系並みの装備を持つ157系を準急『日光』として投入、これは日光線電化祝賀列車です。

【どこの路面電車? 1958.12.24】
1958年クリスマスイブの銀座です、都電11系統は新宿と銀座を結んでました。 東京五輪へ向けて都電廃止が始る直前の風景です。

【北陸本線 山中信号所-大桐間 1959.04.04】
写真タイトルに『1,000t列車』とあり、本務機と後補機にD51(多分)、更にDF50が前補機に付いてます、DF50の補機運用は始めて見ました。

【北陸本線 今庄駅 1958.10.30】
北陸トンネル開通まで今庄には機関区があり補機の基地でした。 『補機のひととき』のタイトルだけで撮影車両データがありません。 右旅客列車本務機C57、左前補機D51の連結状態に見えるのですが、D51逆推進運転の前補機があった?とすればこれも初耳です。

【高山本線 白川口駅 撮影日不明】
進入してくるのは準急『第1ひだ』、キハ55系6連です、交換するDC運転席越し撮影した様です。 ローカル線駅の様々な小物が写り込んでます。


◆小田急の車両達
この2号前から小田急特集を組んでた様で、その3回目です。

シリーズ3回目ですが車両集の2回目、1回目が新型で2回目が旧車・珍車と思いきやさにあらず、区分は解りませんが撮影年代順に紹介します。

最初は1952年撮影の電機、川砂・砂利運搬貨物列車と思われます。 撮影地記載ありませんが背景から多摩川を渡った先の区間と推定します。

1954年2月新宿駅の撮影です、小田急が2連運転してたのですね。 『稲田登戸発』とありますが1955年4月に改称された向ヶ丘遊園発です。 それにしても新宿の空が広い!

同年同月同場所の成城学園前発電車、こちらは2扉車3連です。 ポイントからすると写真手前が3線の小田急新宿駅、すると背後の築堤上を走ってるのは地下に潜る前の京王帝都線の様で、カラー写真なら緑色車体で解りますが、現在のどこかはサッパリ解りません。

1954年8月新宿駅の撮影で半年前撮影写真とはアングルが逆向きです。 背後の現在高層ビル群が覆っている空には何もありません、

前写真と同月同アングルの箱根湯本発急行電車の到着シーンです。 2扉車3連運転だったと解ります、セミクロスシートだったのでしょうか。

1955年3月撮影の2300型試運転電車、撮影地は経堂と推定されます。 車両両端の2扉車なので用途を調べたら、旧特急専用車1700系と1959年登場のSE車の繋ぎ役として製造された車両で、準特急運用された後、NSE車登場で3扉通勤用に改造された経歴でした。

先日TMSに登場した小田急全車種モデル化を目指す方が製作した珍車デト1の登場です、予測した通り経堂に居ました、1956年5月撮影です。

1955年から1968年まで在籍した非電化御殿場線乗入用気動車です、撮影日不明ですが撮影地は新宿駅付近で間違いありません。

1958年10月相武台工場撮影の凸電です。 叔母が相武台に引っ越した1962年頃から小田急を利用する様になりました。 相武台は急行停車駅でもなく隣駅相模大野に待避施設があるのにホーム2本の4線駅でしたが、車両工場があったからだと60年後に解りました。

同年同月に凸電と一緒に相武台工場で撮影されたED級電機1020型です、最初の1040型とは側面窓形状が大幅に違います。

1959年4月鶴川で貨物列車を牽くED1010型です。 これでED級電機1010/1020/1040と3形式登場しました、ED1030型写真も掲載されてますが、大同小異なので割愛します。

ようやく記憶にある小田急の急行電車が登場しました。1959年4月新宿駅付近の撮影です。 この頃に小田急一般型車両の塗色が固まった様です。

1959年5月東北沢駅撮影の通過急行と待避各駅停車(奥)のツーショットです。 新宿発各駅停車は東北沢で優等列車通過待避を行い、中央通過線対向ホーム2面の4線駅でした。

小田急車両のトリはこの年デビューしたSE車、1959年5月小田原-箱根湯本間の撮影です。 当時は登山線の呼称だった様です。


◆懐かしい裏表紙
裏表紙は一番親しんだ私鉄、東急の広告が掲載されてました。 東急の顔、最新型車両が5000系青ガエルの時代で、渋谷-桜木町間の急行運転が始まったばかりでした。

こうして見ると廃線になったのは玉電支線砧線と横浜-桜木町間だけです。 東急は1953年頃から田園都市線沿線土地買収を始め、鉄道敷設で20年で100倍の錬金術を演じました。 中目黒から日比谷線直通運転は早期でしたが、その後も目覚ましい変化を続けました。
➊大井町線延伸の形で田園都市線溝ノ口-長津田間開業。
➋玉電渋谷-二子玉川間廃止と、地下化した新玉川線建設。
➌田園都市線と新玉川線直通運転し半蔵門線乗入れ。

 (同時に大井町-二子多摩川間は分離され大井町線へ戻る。)
➍横浜駅を地下化し横浜中華街まで延伸運転、横浜-桜木町間廃止。
➎目蒲線を2分し南北線乗入れ武蔵小杉まで延伸運転。
 (多摩川園-蒲田間を多摩川線として分離。)
➏渋谷駅地下化、副都心線乗入れ。
以上の通りで地下鉄4路線相互乗り入れは私鉄No.1ではないでしょうか。 当時と変わらないのは唯一池上線だけです。 筆者の昔話にお付き合いありがとうございました。


ではまた。

×

非ログインユーザーとして返信する