Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

半世紀前の鉄道P誌1963年2月号➊

暦の上では大寒、年間で一番寒い時期です。 古雑誌紹介ブログの様相を呈してますが毒喰らわば皿まで、また半世紀前の鉄道P誌紹介で今年の厳冬期を乗り切りたいと思います。

【鉄道P誌1963年2月号表紙】
表紙に記載があるC55/C57特集がこの号を所有してる理由です。 本来なら宗谷本線塩狩峠越えのC55辺りが表紙に相応しいのですが、C10/C11/C12特集号表紙が近鉄20100系であった様に、より話題性の高い車両、この号は京王電鉄井の頭線用の新型車3000系です。


◆ステンレスカーの系譜
ステンレス鋼製車体は国鉄サロ153-900番代と東急5200型が日本初で、東急車両ではその後6000系を経て全ステンレス車体の7000系でステンレスカー普及の牽引役になりました。

【ウィキペディアより】
京王3000系は東急7000系翌年の東急車両製造です。 全長18m、両開き3扉は7000系と同じですが、正面非貫通でステンレス加工が無理な湘南顔デザイン実現の為に、この部分だけFRP製になっており、『ステンプラカー』と呼ばれてました。

【ウィキペディアより】
FRPは塗装不要で、小田急沿線へ出掛ける際に渋谷-下北沢間を良く利用し、4色程度と思ってたら7色ありました。 3000系登場前は表紙に並ぶ緑色車体3連が走っており、3000系で4連化しました。 トンネルと踏切に挟まれた神泉駅では1両のドアが開きませんでした。

【北陸鉄道へ譲渡された3000系】・・・ウィキペディアより
3000系は井の頭線輸送力増強に伴う20m級4扉1000系登場までの34年間主力を務めましたが、以降改造されて地方私鉄へ譲渡されました。 クハ・モハ・モハ・クハ4連が基本編成だったのでモハのクモハ化、中には両運転台改造もあり譲渡先は以下の通りです。
★北陸鉄道:1996年/1998年/2000年 計12両
★上毛電鉄:1998年-2000年 16両
★岳南鉄道:1996年/2000年 5両
★松本電鉄:1999年-2000年 8両
★伊予鉄道:2009年-2011年 30両

【松本電鉄へ譲渡された3000系】・・・ウィキペディアより
筆者地元松本電鉄で現在も現役です、改修を受けて正面窓がサイドに回り込んだタイプの譲渡を受けてます、車齢61年になりますが元気その物、当時の車両は国鉄と同じ丈夫で長持ち設計、この車両導入前は東急旧5000系青ガエルが元色緑のままで走ってました。 鉄道は赤字続きでバス事業が主体なので、バスと同じアルピコカラー塗装をしてます。

東急車両は京王3000系と同年に南海6000系ステンレス車両を製造してます。 高野線輸送力増強が目的だった為、20m級4扉設計です。


◆カラーグラフ都電7500型
表紙見開きのカラーグラフは東京都電新型車7500型です。

【青山車庫にて 昭和37年12月27日】
都内を縦横に都電が結んでいた時代最後の新型車と言って良く、中学生時代に渋谷駅前都電乗り場に出入りするスマートな姿を良く見かけました。

7500型登場間もなく都電の路線廃止と線路撤去が始っており、何故この時期に新型車投入だったのか、長年疑問に思ってたので調べました。

【7500系車内】
東京都交通局では大正時代に製造された古い車両更新の為に昭和31年~昭和33年に8000系131両を大量配備しました。 都電将来廃止が既定路線で、8000系は徹底的にコストダウンし耐用年数10年で設計され、昭和40年代初頭には既に寿命を迎えてたのが背景でした。

【ウィキペディアより】
受験戦争世代の筆者は昭和34年~昭和36年の日曜日、渋谷から都電10系統で小川町の進学教室に通ってました、いつも乗ったのがこの8000系です。 写真右上にゴンドラの様な物が写ってます、都電路線が交差しポイントがある交差点にあった転轍手詰所です。 都内から姿を消して50年以上、7-8年前に函館で同じ詰所見た時は懐かしく感じました。

【青山車庫にて】
7500系は20両製造され青山車庫に集中配備され6・9・10系統で運用された後、事故破損2両を部品取り廃車にして18両全てが荒川車庫配備になり、都電荒川線で2008年~2011年に廃車されるまで実に45年以上働き続けました、7500系設計が優れていた証です。


◆気動車化が進む優等列車
1961年昭和36年10月のヨン・サン・トウ大改正で優等列車が多数誕生しましたが、多くは客車編成機関車牽引でした。 1年2ヶ月後の1962年12月に気動車置換が進んでます。

最初は準急『妙高2号』、上野-直江津間の運転区間でEF58牽引です。 碓井峠越えした軽井沢から先は蒸機牽引だったと思われます。

翌日12月1日からキハ57系に置き換えられると共に急行に格上げされました。 全区間乗車すると¥100の準急料金が¥300への値上げです。

次は名古屋-長野間を結んでた準急『きそ1号』です、D51牽引優等列車の珍しい写真です。 注記にある様に翌12月1日からキハ58系急行『赤倉』に昇格し置き換えられました。

昭和37年12月1日名古屋駅での出発式の様子です。 『赤倉』は『きそ1号』と小諸-新潟間にヨン・サン・トウ大改正で登場した準急『あさま』を統合する形で名古屋-新潟間を結んでました。 現在その機能は東京経由新幹線が果たしている事になります。

米子-境港間初の優等列車準急『美保』です、撮影日が昭和37年12月1日である事から処女列車だと思われます。 前2例と合わせこの年にキハ58系が大量増備されたと解ります。 2連準急の列車名と併結列車調査の為に、1964年9月号の時刻表を調査しました。

【1964年9月境線時刻表】
この時刻表で列車名『美保』と併結はなく鳥取-境港間運転と解りました。 そしてもう一つ、運転開始時は2連でしたが、時刻表は1等車連結でキハ+キロ+キハの3連化された様です。 境港到着後、境線内を1等車営業運転で各駅運用往復してから準急として鳥取へ引き返してます。 また日に4本の客車列車がありますがDL牽引だったと思われます。


ではまた。

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