Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

半世紀前の鉄道P誌1962年5月号➍その他

同号掲載のその他の記事と全国フォトトピックスからです。

【鉄道P誌1962年5月号表紙】
ネタ不足ですので徹底的にしゃぶり尽くします。


◆京阪電鉄大津線の車両達
この号では京阪電鉄大津線の車両を特集してます。

私鉄車輛巡りシリーズ第48回京阪電鉄大津線は、同志社大学鉄道同好会の研究成果です。

【三条大橋にて 昭和初期 旧10型 No.24】
最初はグンと古く90年前の写真です。 オープンデッキの短い車体とポール集電は、当時の東京都電の路面電車と大差ありません。

【撮影地不明 昭和30年9月 No.227】
時代が30年経過しても3扉ダブルルーフのトラス付き木造車体は戦前の国鉄客車と同様な古臭さです。 何もない草原を行く電車、大津周辺の琵琶湖沿いが撮影地と推定されます。

【撮影地不明 昭和30年2月 No.72】
前写真半年前撮影のNo.72は車体が長く新しくなってます、筆者が知る当時の東京都電車両より少し古めかしいですが近い印象です。

【日の岡にて 昭和31年2月 No.55】
日の岡は京都三条通り併用軌道にあった停留所で地下鉄開業廃線により廃止されました。 No.55は前のNo.72と同型だと思われます。 市街地なのに緑の多さが目立ちます。

【ウィキペディアより】
前写真41年後の日の岡停留所です、大都市の変化速度は速いですね。 と言ってもこの画像も26年前、今はどうなってる事やら・・・。

【撮影地不明 昭和31年2月 100型 No.120】
またまた3扉ダブルルーフの古めかしい車体です、ただしこの100型は前面がラウンド形状で下部が少し張り出し流電のイメージがあります。

【蹴上-九条山間 昭和31年6月 No.61】
オッようやく2両編成と思ったら連接車体です。 場所は京都市内から東山を越える66.7‰急勾配区間、国道1号線にピタリ寄り添う様に大津線が走る場所でしたが、1997年地下鉄開通で廃止されてます。

【蹴上にて 昭和32年2月 No.62】
同じく地下鉄開通で廃止された区間を走る連接車体No.62です。 東京育ちの筆者には馴染みの薄い関西私鉄ですが、京都-大阪間で国鉄と熾烈な争いを展開し、優等列車時間短縮の為、高加速高減速各停用車両ラビットカー導入がニュースとして知ってた程度です。


京阪電鉄の支線を含む京都-大阪間は都市間高速鉄道で他の私鉄と変わりませんが、大津線は山越え登山鉄道と併用軌道路面電車の性格を併せ持つ特殊な路線と後年知りました。

【追分にて 昭和33年7月 40型 No.41+No.43】
ついに2両編成登場です、追分は大津に下ってゆく場所にあり、現在との風景差は解りません。 ヘッドマーク判別不能ですが多分『急』、急行電車です。 統括制御機能があり運転士は1人だったと思いますが・・・。

【撮影地不明 昭和35年9月 200型 No.205】
2両編成急行電車です。 筆者馴染みの東急東横線では昭和29年に旧5000系通称青ガエルが、この写真撮影の昭和35年にはオールステンレス回生ブレーキ装備の旧6000系が登場してますし、東京五輪へ向け路線廃止撤去が始った東京都電より古臭い車両です。

【撮影地不明 昭和35年9月 No.268】
同月別の急行電車は新型です。 当時の小田急車両に似た外観で、よく見ると両開きドアです。一気に20年進化した印象ですが、ポール集電が続いてました。 架線を張り替えパンタ集電切替時期は解りません。


7-8年前に浜大津から急坂併用軌道を登った場所の東横インの宿泊経験があります。 4両編成路面電車が急坂を50km/h近い速度で登り降りする姿は圧巻でした、先に道路ができてたハズ、印象は66.7‰以上でした。


◆北陸トンネル開通
北陸本線開通以来の路線上の難所は、この時代までに倶利伽羅越えは倶利伽羅トンネルで、木ノ元-敦賀間柳ケ瀬越えは深坂トンネル(5,170m)の新線開通で解消しましたが、敦賀-今庄間26kmが最後の難所として残り、スイッチバック3ヶ所の25‰勾配区間でした。

敦賀-今庄間所要時間は旅客列車45分、貨物列車前後補機3重連運転で1時間でした。 新トンネルは海沿いルートや敦賀をバイパスし直行する18km案も検討されましたが、最終的に敦賀-今庄間を直線的に結ぶ13km案が昭和32年4月に決定しました。

断面図を見ると勾配緩和の様子が解ります。 同時にトンネルで直線的に結ばれた為、敦賀-今庄間が9.2km短縮されました。 加えて電化で輸送力大幅増強に貢献しました、開通後時刻表で敦賀-今庄は1/3の16分です。

新トンネルルート決定からわずか4年弱で完成、トンネル掘削技術かかなり進歩してた事が解ります。 開通後の旧線区間は支線として残りましたが、その後廃止されてます。

【線路敷設を完了した北陸トンネル内部】
昭和37年3月20日に線路敷設完成式典がトンネル内で行われました。

【北陸電化の主役EF70活動開始】
準急『ゆのくに』牽引のEF702、昭和37年3月47日長浜駅の撮影です。 当時の長浜駅は当社生野駅と同じありふれた国鉄3線駅でした。 なお『ゆのくに』は翌昭和38年急行に格上げされ371系に電車化されました。

【南福井-今生間慣熟運転中のED70+D51】
電機と蒸機重連運転ではなく、D51はバックアップです。 昭和37年3月5日撮影です。


◆修学旅行列車2題
筆者は団塊世代後期です、一番同学年数が多いのが2学年上、昭和22年4月~昭和23年3月生まれで、この号が発行された時に中学3年生、修学旅行の年に当りました。

155系『ひので』増備車として製造された159系『こまどり』が本号で紹介されてます。

【修学旅行専用DC『ちびうめ』 昭和37年3月10日 直方駅】
首都圏・関西圏修学旅行生に『ひので・きぼう』、中京圏に『こまどり』、北九州圏にDC『とびうめ』が設定されてました。 修学旅行生は全国に居た訳で、大都市圏が優遇され、北海道・東北・中国・四国の修学旅行生は専用列車がなく冷遇された事になります。

155系/159系同様の引き出し式テーブルが設置されてます。 他にも時計・速度計・ベッドとしても使える座席などが追加装備されてます。


◆私鉄乗入れ優等列車2題
現在第三セクターを除く純粋な私鉄線に乗入れるJR優等列車はあるのでしょうか?、興味がないので知りません。 東武特急の新宿乗入れの様な逆のケースは見て知ってます。

【紀勢線直通 準急『南紀3号』 昭和37年3月1日】
南海電鉄難波駅の撮影です。 南海線経由南紀方面準急はこれ以前から客車で運転されてましたが、キハ55系気動車化され、これはその処女列車です。 キハ55系登場時の『日光』と同じ準急塗装です。

【長野電鉄直通 急行『志賀』 昭和37年3月1日】
長野電鉄湯田中駅の記念列車発車式の様子です。 上野発長野行急行『志賀』の一部2両が湯田中まで乗入れ開始しました。 車両はキハ58系の碓井峠越え仕様キハ57です。


◆裏表紙
裏表紙は小田急SE車、乗入れ優等列車に関係します。

箱根までの所要時間80分は現在と変わりません、新宿発8:00から18:30まで17本運転されてますが全列車に個別名称を付けてます。 『はこねXX号』では国鉄準急みたいで安っぽいと考えたのでしょうか?、『明星』『金時』『夕月』には命名の苦労が偲ばれます。


運賃¥380は現在¥2,451で6.5倍、当時かけ蕎麦¥30、ラーメン¥50の時代ですから、かなり高い運賃設定でした。 また御殿場線電化後に新松田から御殿場線に乗り入れる特急『あさぎり』が運転されてました。


ではまた。

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