Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

定食屋今昔三題

先日昼食を出先で摂る事があり5-6年振りに定食屋へ行きました。 それに掛けての雑感・昔話です。 『定食屋』で思い浮かべる店は人それぞれなので、筆者の『定食屋』定義を書きます。 御飯、みそ汁、お新香がベースで、主菜、副菜を選択できる食堂です。


主菜(●●定食の場合もあり)で必ずあるのは『サンマ塩焼』『アジフライ』『サバの味噌煮』、副菜は『冷奴』『キンピラ』『生卵』と言えばイメージできるでしょうか。 気取った食事処やレストランではなく、安くて、旨くて、ボリュームのある庶民的食堂です。

【中山平駅前食堂】
中山平駅前食堂は筆者定義で『大衆食堂』、定食の他に和洋中華何でもあり、寿司や鰻もレパートリー内で、『定食屋』ではありません。


1.1966年の定食屋:大田区下丸子
大田区は町工場の密集地帯で今もその面影があります。 筆者高校2年の初バイト先は東京ガスメーター再生下請工場、東急下丸子徒歩5分、時給¥100でした。 鉄道模型と登山装備入手目的で夏休み/冬休みにバイトし、昼食を食べたのが工場街の小さな定食屋でした。


厨房込み8畳ほどの広さを夫婦で切り盛りし、作り置きできるメニューが中心で、手間の掛かる麺類はありませんでした。 客はほぼ全員近くの町工場の工員さんで、中卒集団就職で上京したと思える同世代も居ました。 御飯大盛で安い主菜と副菜、¥60-¥70でした。 すきっ腹を満たせば十分の年頃で味の記憶はなく、狭くて古い店だった印象があります。

【延伸線峠茶屋】


2.1986年の定食屋:塩尻峠
下丸子バイトの20年後、30代後半の筆者は就職結婚し3人の子供が居ました。 松本へ仕事で外出の帰り、同僚の押す塩尻峠の定食屋で夕食を摂りました。 まず驚いたのが大型トラックがズラッと並んだ駐車場、近くの食事施設と乗用車・トラック比率が逆転以上です。


店内定員は40人ほど、奥が横長厨房、客席間が長いカウンターで割烹着おばさん連が注文取り、配膳をしてました。 カウンター上2段にメニュー札、上段定食で30種ほど、下段副菜で『ししゃも』『イカの一夜干し』等つまみもあり、飲物にはビールもありました。

【過去記事より転載】
車しか交通手段のない山の中です、同乗者へのアルコール提供が建前、2人乗務遠距離輸送が当時はあったので、交替する運転手のベッドに潜り込む前の一杯と善意に解釈しますが、現在と異なり『ビールは酒の内に入らない』と言う強者が居たのも確かです。


『トラック野郎が集まる店は安くて旨い』の同僚の言葉通り、¥300前後で大満足でした。 1966年も同じですがラーメン一杯同等か+αでガッツリ食べられるのが定食屋でした。 その後国道20号拡幅工事で直線化され、2-3年後にあの店でもう一度と探しましたが場所さえ解らず発見できませんでした。 その後長く定食屋にはお目に掛かりませんでした。

【過去記事より転載】
2003年春大学進学し岡山で一人暮らしを始める息子の引っ越しの際、グッと近代化された『定食屋』、トレイ持ってカウンターから好きな主菜・副菜を取り最後にレジの店で親子3人の夕食を摂りました。 塩尻峠の定食屋から17年目で千円でお釣りが来る価格でした。


3.2006年~の定食屋:諏訪
岡山で見た新時代の『定食屋』が諏訪にできたのはその数年後でした、諏訪高島城の近くにオープンした高島城食堂です。 諏訪湖岸から700-800mの場所ですが、築城当時の高島城は湖水に浮かぶ城で湖だった場所、当時から諏訪湖の面積は数分の一になってます。

オープンを知って一度、その後2-3回行って足が遠のいてました。 特別旨い訳でもなく、他の外食産業の低価格戦略で割安感がなくなってたからです。 コロナ後初の利用で、その影響が色濃く出ており出入口脇ではテイクアウトの弁当販売をしてました。


メニューも様変わり、量を減らして価格化、結局品数増えて千円チョイ超えです。 御飯の替わりにうどん・蕎麦選択可能にもビックリ、麺類なら専門店の方が絶対旨い、こんな処にも外食産業ボーダレス化が進み『定食屋』の雰囲気が失われてました。 多分もう立ち寄る事はなさそです。 しょーもない雑談で失礼しました。


ではまた。

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