Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

1963年 鉄道の話題 九州/中国編

1963年は国鉄の話題が豊富な年で、アプト式廃止、新線開業、電化延伸、事故多発など様々なテーマに沿って紹介してきました。 今回は地域毎の話題をまとめて紹介します。


◆九州編
日南線・指宿枕崎線が開業した年で、電化区間は鹿児島本線門司-荒木間のみ、熊本へ向け電化工事が進んでました。

日南線南宮崎-青島間は宮崎交通線を買収して線路を付け替えた区間です。 国鉄新線開業の陰で消えた地方小私鉄がここにもありました。 こんな小さなBタンクロコが走ってた様ですが解体されてクズ鉄に、私鉄の保存車輛が非常に少ないのは残念です。

国鉄第三次5ヶ年計画が進行中で、電化完成は熊本にも達してないこの時期に、南の拠点鹿児島には新しい車両基地が完成してました。

豪雨・土砂災害等による不通で優等列車の迂回運転は昔からあり、比較的新しい事例として特急『あけぼの』のDE10重連迂回運転が良く知られてます。 60年前にも鹿児島本線不通で特急『はやぶさ』が肥薩線経由迂回運転(牽引機D51)した記録が残されてます。

肥薩線の線路規格はD51の軸重基準を満たしませんが、運輸大臣認可を受けてD51が運用され重連運転も行われてました。 8年前に考証もせず、KATO初代20系客車を使いお遊びでやったD51牽引ブルトレ特急迂回運転は先例があったと改めて知りました。

今も昔も梅雨時期の九州で集中豪雨災害が多いのは同じで、前記迂回運転の鹿児島だけでなく、福岡にも被害を与え西鉄線にも影響が出てます。

1960年『つばめ』『はと』の151系化で展望車が消え3等級制から2等級制に移行しました。 モノクラス化で普通車/グリーン車になったのは1969年5月で2等級制が9年間続きました。 当時の1等料金は2等の2倍で、グリーン車よりかなり高い価格設定でした。


1960年代初頭には、豊肥本線/久大本線普通列車に1等車が併結されてたので調べると、肥薩線と前後して廃止され、幹線長距離列車だけになった様です。 併結廃止で余剰になった1等車は2等車/普通車に格下げされました。 一度だけ格下げ車に当った幸運がありフカフカシートと広い足元、台車の違いか乗り心地も良く、枕部にカバーがないだけの差でした。

この年夏には九州玄関口国鉄博多駅新築工事が駅ビルと併せ12月1日開業を目指して急ピッチで進んでました。 当然の事ながら交通渋滞の原因にならない高架駅です。

前写真で線路敷設が進んでますが反対側はこの状態、5ヶ月切ってもやり遂げてしまう土建国家が当時の日本でした。 新幹線もオリンピックも、1970年大阪万博もしかり、国家威信プロジェクトの前に労働時間管理の概念は薄かった時代でした。 今度の大阪万博は間に合うのでしょうか。 人混み嫌いで行く気ありませんので無関心ですが・・・。

【旧博多駅】・・・過去記事より転載
1963年11月30日まで使用された旧博多駅です。 新駅の600m中心街寄りにありました。 写真で見る限り高架駅ではなかった様です。

電化後しばらく門司で特急『さくら』のバトンをEF30から引き継いでたのはC61だったと解ります。 特急『みずほ』の20系置き換え同日から、門司-博多間ブルトレが蒸機から電機へ置き換え、多分『みずほ』熊本行編成も同じだったと思われます。

小ネタの多客時臨時準急の話題です。 サン・ロク・トウダイヤ改正で国鉄準急が全廃されたので、乗車経験のある準急は中央本線『白馬』と紀勢本線『きのくに』の2回だけです。 主に時刻表で分割・併合するDC準急の運転を楽しみ、実際に乗車した時は急行でした。 キハ55/58系が非電化路線優等列車の歴史に与えた影響は、非常に大きな物でした。


◆中国編 瀬野八
中国編は地方全体でなく『瀬野八』と呼ばれた山陽本線難所の話題です。

この時代に『西の箱根』と言われてたかどうかは解りません。 箱根越え(御殿場線)が東海道の難所だったのは1934年丹那トンネル開通前までの事だからです。 筆者が瀬野八を知ってたのは以下2点のみでした。
➊山陽本線八本松-瀬野間が急勾配峠越え難所で瀬野八と呼ばれてる。
➋かつては蒸機補機、電化後も電機補機が使われてる。
今回この記事作成に当たっての調査で、自分の知識が如何に生半可で知らない事や誤解が多かったか思い知らされました、隠さずに書きます。

最初はEF59に???、1962年に岡山-広島間電化が完成し、瀬野八補機をD52から引き継ぐ為に、電化区間列車の電車化で余剰になったEF53改造で1963年に生まれた瀬野八補機専用機です。 24両改造され、1966年に全機引退の非常に短命な形式でした。

慣熟運転と書かれてますが荷物列車42レの営業運転が行われてます、バックアップは前任のD52、D52補機は特甲線路規格の山陽本線ならの物で、他では見られなかったでしょう。

同日同機がEF58と組んで後補機を務めてます。 電機補機は聞いてましたが3重連とは知りませんでした、一般認知度も低かったと思います。

急行38レは博多発『筑後』と大分発『ぶんご』の併結列車で東京行夜行急行、言わばプアマンズ『みずほ』的列車で、瀬野八通過は15:30過ぎ、こちらは補機1両です。

これは当然そうだったろうと驚きませんでした。 最急勾配15‰東海道本線用に開発した151系が特急『富士』として広島まで2往復延伸運転された想定外への対応です。 国鉄車両は50年使う前提で設計製造され、それでは161系に置き換えとはできなかったからです。

同じ事が昼行/夜行2往復の153系急行『宮島』でも起きました。 信越本線/中央本線用新製の164系を回す事はできません。 電車優等列車の補機は後補機で、補機用電機には自動連結解放装置を装備して走行中解放、運転時間短縮してたと調査で解りました。 ここまでの瀬野八越え写真は全て偶数列車番号上り列車です。 変だな~と思ったら・・・。

その違和感の答えがこの写真、補機使用は瀬野⇒八本松の上りだけ、補機は八本松⇒瀬野へ回送されてました、サミット両側勾配が違うとは知りませんでした。 瀬野機関区は東北本線一戸機関区の様な補機基地で、一戸が電化で閉鎖された様に、強力電機/電車が揃った1986年、民営化前年に閉鎖されました。 幹線峠越え難所なので25‰と信じてたら・・・。

【ウィキペディアより編集】
ここも生半可な思い込みで22.6‰と記されてます。 難所と言っても旧東海道本線(御殿場線)や中央本線の25‰よりなだらかなのです。 測量して短くしたいサミットトンネル位置と長さを決め、一定勾配で結んだ結果です、しかし計算したら大きな疑問、この22.6‰は22.7‰の間違いの可能性が非常に高いのです。 その背景を奥羽本線の例で説明します。

奥羽本線3ヶ所の県境越え最急勾配は全て異なり、いずれも蒸機時代補機運転区間でした。 そして路盤建設測量利便性を優先し5の倍数分の1の勾配になってます。 碓氷峠越え66.7‰は1/15、山岳ローカル線の33.3‰は1/30です。 瀬野八の22.6‰は1/44.25と言う非常に中途半端な値で、5の倍数分の1ではありませんが、1/44なら22.7‰になるからです。


JP情報をフォローしてなく解りませんが、補機運転も過去の物になりました。 瀬野八では知ってたつもりの浅学を思い知らされましたが、無知を知るのは前進とも言いますので。


ではまた。

県道周辺の製作

お気付きかと思いますが、今年から月曜水曜金曜の週3回更新に頻度を上げ、水曜にレイアウト建設記事をリリースしてます。 慣れてきた俳句とのバランスが良く、レイアウト建設が週一で進みます。 生活リズムに合ってるので、しばらく続けてみるつもりです。

今回の施工区間です、県道とドライブイン出入口には紙粘土を盛り塗装しました。 広告塔土台石垣部も隙間が広いと気付き(良く見えてませんでした)、紙粘土盛りと塗装を追加しました。 神社前駐車スペース間には1mm弱の隙間が空いてます。 混合砂撒布すると際限なく吸い込まれますし、微量紙粘土盛っても県道にはみ出さず塗装するのが厄介です。

➊ボンド原液にボンド水を半量加え、極濃厚ボンド水を作ります、ボンド水追加は伸びを良くし、撒布混合砂浸透性を高めて固着するる目的です。
➋紙粘土盛った場所には筆塗りし、狭い隙間にはボンドを置いて隙間を塞ぎ蓋をします。
➌紙粘土を盛った場所に3種混合砂を撒布し、ボンドで蓋をした隙間部は県道に3種混合砂を帯状に撒布します。
➍県道上の3種混合砂を筆で掃き寄せてボンド部に盛り上げます。

仕上げ作業のお遊び、県道のタイヤ痕です。 茶と黒のウェザリングマスターで画きました。 タイヤが土で汚れてるのは出る時なので片側、内輪差あるのでこんな物です。

乾燥待ち時間の一仕事です、前回製作した生垣は、如何にも取って付けた様な風景でまだ未完成です。 目立ち過ぎる長い擁壁を少し隠したいですし、県道から丸見えのドライブイン住居の目隠しも必要です。

3本植樹を考えてましたがとりあえず2本、下草も生やしてます。 この植樹で目立ち過ぎの擁壁と、浮いてた生垣が風景に溶け込みました。

2日間放置乾燥固着後余分の砂を吸い取り、県道と既製ユニット境界部完成と思いましたが、低い目線で見ると樹木2本ではスカスカです。

そこでもう1本低い樹木を追加植樹、これで住居の目隠しになりました。

洞門出口から神社前まで、県道とドライブイン&神社ユニット境界部風景製作完了です。

次は県道路面製作時に型紙を取った駐車帯&チェーン脱着場の製作です。 県道には傾斜がありますが、駐車帯はフラットです、下の斜線部は駐車帯外側基台端の石垣部です。

型紙外すと下はこんな具合です。 県道設置時にドライブイン&神社ユニットベース不要部は切除しましたが、県道トンネル&洞門ユニットベースが張出してます。 せめてもの救いはこのベースが水平な事ですが、駐車帯の基礎をどう作るか頭の痛い問題です。

頭が痛い問題はもう一つあります。 県道と駐車帯の基台端側は図示した5枚の石垣が続きます。 同じ場所の石垣角度がバラバラでは不自然な風景になってしまいます。 石垣接続部を含めどう作り上げるか、角度もバラバラで計算では答えが出そうにありません。

ベース張り出しがなければ30mmキューブ材で基礎を作る処ですが無理です。 張出したベースを基準面として製作する事にしました。

問題の石垣角度は、駐車帯&チェーン脱着場コアに角材を使い、角度出しした石垣ベースを取り付ける方法で製作します。 30mm幅端材から採寸して切り出しました。 この時切り取った端材の端材を見て、これ使えそうと思いました、行き当たりバッタリですから。

➊コア角材厚みは11.6mmでした、コア用途は10mm前後でOKです。
➋基台と基礎にする県道トンネル&洞門ユニットベースの隙間は12mm弱で、浮いた状態で駐車帯乗せても大丈夫そうですが強度アップします。
➌端材の端材を基台とベース間に挟むと無理なく入りわずかな隙間ができます。 0.5tプラ板が入る余裕はなく、0.3tプラシートがピタリです。
➍有った物利用でベース先端に足を追加し高さ出しできました。

県道路面と高さ合わせするスペーサ用に4mmコンパネ端材を30mm幅に切り出しました。 長さは端材の長さでコア角材より短目です。

ベースの上に重ねると、右端県道の一番低い面であと1.5mmほど高くすれば同一面になり、薄いスペーサ追加でフラットになります。 今回はここまでにして石垣作戦会議です。


ではまた。

1963年 頻発した鉄道事故

人間は手痛い目に遭って始めて何が不足してたかを考え、同じ過ちを繰り返さない様に手を打つ歴史を繰り返してきました。 能登半島地震では1981年の建築物耐震基準強化前、築43年以上の多くの家屋が全壊し多数の死亡者が出ました、ここから何を学ぶのでしょう。

【オハユニ61 過去記事より転載】
戦後の鉄道史に残る大事故を見ても、1947年2月発生の八高線列車脱線転覆事故(死者184名)で脆弱な木造客車が被害を拡大させた事から、旧型木造客車の鋼体化改造が行われオハ61系が誕生しました。


また1962年5月発生の三河島事故(死者180名)は下り貨物列車信号誤認脱線がキッカケとなった多重衝突事故で、事故再発防止策としてATS導入が決定されました。 しかしATS導入完了前に、また貨物列車脱線に起因する死者161名の多重衝突事故が発生しました。

三河島事故から1年半、その記憶が風化してない頃で、翌日朝刊一面半分の現場写真と最大サイズ活字が躍る紙面を見た衝撃は良く覚えてます。

図下2線が貨物上下線、中央2線が東海道/横須賀上下線、左端でオーバークロスする上2線が京浜東北線です。 下り貨物列車後部3両が脱線して隣の東海道/横須賀上り線を塞ぎ、そこへ上下横須賀線列車が衝突し大事故に至り、人為的ミスの要因はありませんでした。

度重なる大事故に国鉄批判の声が上がりましたが、輸送力増強の社会的要請で、スピードアップと過密ダイヤを強いられてた国鉄は、安定的かつ安全に運行する技術・システム開発と装備が追い付いてなかったのです。

負傷者救出と共に徹夜の復旧作業が進みました。 東海道新幹線開業前年、日本の大動脈を止める訳には行かなかったのです。 現代の社会的価値観からすると『大勢の方が亡くなった事故なのに不謹慎な』と言われかねない滅多に見られないこんな写真も残されてます。

鶴見事故を契機にATS導入が加速しました。 しかし1960年代後半山手線の実態はATS警報ベルが鳴ればオフして手動・目視確認運転、でないと守れないダイヤでした。 ATS指示に従いダイヤを混乱させる事が『遵法闘争』の名で国鉄労使紛争で使われたほどです。


この常態化したATS警報オフ手動・目視確認運転は、総武線緩行東中野駅追突事故を引き起こし、更に歴史を繰り返し民営化後JR西の尼崎事故まで繋がってます。 人を補助し人に頼るATS は限界があり不十分で、人を信じず人を制御する新幹線から導入されたATCでないと安全を保つのが難しく、それが尼崎事故の教訓だったと思います。

詳報によると貨物列車43-45両目脱線がキッカケで、脱線貨車接触で脱線した上り横須賀線先頭部が現場で擦れ違い中の下り横須賀線編成4-5両目に突っ込んでます。 三河島事故で議論された事故発生で他列車緊急停止措置でも防げなかった不運が重なった事故でした。


事故原因は2軸貨車ワラ1の競合脱線とされましたが、そのメカニズムは解明されず、1966年廃線になった旧狩勝峠越えを実験線として研究が続けられました。 実験線研究は1979年まで続きましたが、その間に国鉄は輸送の王者の地位を失っており、長大編成混載貨物列車は姿を消し、研究成果を活かす場がなくなってました。

なお同年夏に旧型国電改造の事故救援車が大井工場で完成して田町電車区に配属されており、鶴見事故でも出動したと思います。 1963年には鶴見事故の前に3件の脱線転覆事故が発生してます。 

下り急行『平戸』は、大阪始発佐世保行夜行列車で笠岡通過は深夜1時半頃ですが、何故か13:25と書かれてます。 AM/PMの間違いで事故後早朝と思われます。 ポイントトングレール折損でEF58横倒し、列車が本線を塞ぎ後続九州行ブルトレも大混乱したでしょう。

現代より重量級の国鉄電車が、現代より小型軽量のトラックと踏切で衝突しただけで、いとも簡単に脱線転覆事故になってます。

当時より少ない最近の対車踏切衝突事故で脱線する事故はほとんどありません。 軽量でも強靭な車体、脱線し難い何かがあるのでしょうか。

こちらも踏切事故、1960年代は踏切事故が急増した時代でした。 列車本数の増加と自動車の急増が背景で1960年代末には年間3千件前後でした。 踏切警報器/遮断器設置と対策が行われましたが、一番効果があったのは踏切をなくす高架化でした。

【内閣府統計より】
それから40年間で踏切事故は年間500件以下1/6-1/7に減少してます。 そして最近20年間で更に半分、開かずの踏切の話は聞きません。 JR化後の脱線転覆大事故は2005年4月の尼崎事故まで起きてません。


尼崎事故の同年12月に羽越本線特急『いなほ』の突風による脱線転覆事故が発生しました。 事故後JR強風基準が厳しく改訂され、小田急・京王は多摩川鉄橋渡って運転してるのに、JRだけ多摩川鉄橋を渡れず立川以遠運転見合わせが何度か発生してました。 踏切事故・車両事故共に、年々減少してますが、ゼロになる事はないでしょう。


ではまた。