Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

1963年 鉄道の話題 北海道/東北/甲信越編

昨日3月21日の最高気温は+1℃、あと少しで真冬日の寒さでした。 今朝の予想最低気温は-10と真冬並み、暑さ寒さも彼岸まで何て『嘘だろ~』と言いたくなる気候です。


1963年鉄道の話題最終回は北海道・東北・甲信越編です。


◆北海道編
動力近代化の波は北海道にも押し寄せてました。

北海道の蒸機牽引急行列車は2本にまで減っており、その内の1本『大雪』が5月一杯で廃止されてます。 最後の蒸機『大雪』の札幌駅出発式の様子です。 花束を受け取る手前から機関士、車掌、食堂車ウェイトレス(面白いですが食堂車消えるからでしょう)、その奥は札幌駅長でしょうか。 キャブ窓から顔出してるのが機関助士だと思われます。

その翌日、DC急行『はまなす』が『大雪』に名称変更されました。

根室本線は滝川-釧路間が本線で釧路-根室間は花咲線と呼ばれ支線扱いでした。 札幌-根室直通急行『阿寒』が誕生し、その出発式です。 キハ27系5連とあり、1等車含む3両は釧路止まり、根室行は2両です。 エンジン1基DCで狩勝越えできたのでしょうか。

『エルム』は季節限定の全席指定臨時準急列車として函館-札幌間で運転してました。

北海道最古の客車が準鉄道記念物に指定され、その寄贈式のニュースです。 所有者は定山渓鉄道、コロ1の形式名から小型軽量2軸車で、3等級時代の2等車だったと解ります。 若い頃覚えた客車自重のコホナオスマカや、貨車積載量のムラサキがまだ残ってます。


◆東北編
仙台電化が完成し盛岡へ向け工事が進んでた時期で、電化関連の話題が届いてます。 その前に1963年開業路線として三江南線/会津線/日南線/指宿枕崎線/岩日線/能登線の6線を紹介しましたが、もう1線ありました。 

10月15日に阿仁合線阿仁合-比立内間が延伸開業し、鷹ノ巣駅で祝賀列車出発式が行われてます。 国鉄自身の責任と言うより政治の責任ですが、地元選出議員の顔を潰さない為に莫大な国費の無駄遣いだったのは明らかで、命を縮める新線建設になりました。

5駅13kmの延伸開業です。 阿仁合線の救いはその後角館まで全通し、秋田内陸縦貫鉄道として現存し、三江線/岩日線/能登線の様に全廃されて無駄に終わらなかった事です。

仙台で電車基地の建設が進んでました。

153系ベースの交直両用451系が前年登場し、主電動機をパワーアップした453系がこの年に臨時急行『みやぎの』で運用が始まりました。

客車急行だった『あおば』も電車化されてます。

電化されたので電車区増設だけで良さそうですが、仙台客車区も新設されてます。 既存施設が狭かったか、構内電化が難しかったのでしょう。

急行『みちのく』は上野-青森間常磐線経由の昼間急行で、食堂車が併結されてました。 このニュースからすると、仙台-平の非電化区間はそれまで蒸機牽引だった様です。


◆甲信越編
甲信越と一括りに言われるのでその順番に従い山梨からです。

この時点の中央本線は甲府-上諏訪間電化工事が未完成でした。 急行はキハ58系、新宿-甲府間準急『かいじ』に165系が先行投入されてます。

 

除雪車の分解整備の珍しい写真です。 飯山線森宮野原は日本一雪深い駅として知られており、飯山線や信越本線長野以北、更には北陸本線まで出張する冬に向けた準備です。

整備完成写真があって始めて前写真がロータリー式除雪車と解ります。

この年の信越本線電化前はキハ58系2連の乗入れでした。 電化後165系に置き替えられたので、その最小編成単位3両で試運転が行われてます。

営業運転は10月ダイヤ改正からです。 大幹線以外特急が走ってなかった時代に東京から最速新鋭車両急行列車が片田舎の温泉町に直通するのは、さぞ誇らしかったと思います。

鉄道P誌裏表紙は大手私鉄広告が多かったのですが、長野電鉄も頑張ってます。 ここにも自動車化の波が、長野電鉄が上野から志賀高原直通バスを運行してます。 特急バスと銘打ってますが、関越高速道も上信越道もない時代、所要時間は9時間前後でした。

長野から県境越えた新潟でDC準急が増発されてます。 信越本線電化で余剰になったDCと思いきやキハ55+キハ26です。 翌年松本電化で信州の急行はキハ58系から165系に大きく様変わりしました。 信州のキハ58系はその後どこへ流れて行ったのでしょう。

以前ブログに書いて、現在は復元され梅小路に保管されてますよと教えていただいたC51 239が準鉄道記念物に指定されてます。 新潟教習所教材として内蔵見せてた姿から、梅小路に旧お召機として栄転する間にこのステップがあったのだと納得できました。

上越線は信越本線より先に電化され、前年から特急『とき』が運転されてました。 しかし急行『佐渡』は客車編成のままで、ようやく165系に置き換えられました。 『これでも急行か』の悪口があったという事は、1/2等車のみで食堂車もなかったのでしょう。[完]


ではまた。

県道駐車帯の製作 その2

前回の続きです。 三角棒と角棒組合せで石垣角度出しする方法が予想以上に上手くいき、5枚中駐車帯3面の目途が立ちました。 今回は洞門出口県道の石垣作りからです。 ここの県道は2.5%勾配で、石垣上辺が傾いた石垣なので、面倒な工作になりそうです。

石垣作りの前に洞門出口に40mm長ガードレールを取り付けます。

反対側120mm長2本のガードレール取付は足の本数が多くて苦戦したので、ここは4本で難なくと思いきや穴位置を合わせられない、嫌になりながら何とか取付完了しました。

石垣基準のベースに県道トンネル&洞門ユニットベースを使いますが、左の様に紙粘土が盛ってあり石垣全長を石垣ベースに使えません、削り落とし右の様にしました、 紙粘土除去すると角材の洞門基礎がモロ見えになるので、コンクリート基礎に見える様にします。

洞門出口県道石垣長は47-48mm必要と解りました。 石垣材を貼るベースを45mm幅で製作する事にしました。

➊45mm長の5mm三角棒と2mm角棒の組み合わせ部材を作ります。
➋ベース0.5tプラ板に2mm余裕残し貼り、奥に45mm長5mm角棒を隙間なく貼りました。
➌5mm角棒に5mm角棒10mm長と30mm長を、5mm間隔を空けて2本重ねて接着します。
➍2段重ね5mm角棒の上前面に2mm角棒45mm長を接着しました。

駐車帯ベース厚11.6mmに対し、製作した三角棒裏は12.0nn高で0.4mm高く、わずかに急角度になりますが、許容誤差範囲なので駐車帯と同じ様に斜材を貼りました。 2段目5mm角棒ない部分には角穴を空けてます。

反対側斜材と2mm角棒が接する部分にもタミヤセメントを流し接着してます。 ここから先の工程は現物合わせの連続になります。

現場で斜材に貼る石垣高を計測して切り出し、斜材に貼りました、駐車帯部より高くなってます。 残材利用で塗装跡が残ってますが、再塗装するので問題ありません。 ベース角穴中心に2.5mm穴を空けてます。

2.5mm下穴を小型四角ヤスリで斜めに削り拡げ、3mm角棒が水平に通る様にしました。 ここにドライブイン擁壁下側溝が県道下を通り顔を出して河原へ排水します。

県道接触面を傾斜に合わせて斜めにヤスリ落としました。

ここでまた現場確認、駐車帯ユニットの高さ出しです。 石垣高に合わせ板紙2枚重ねると、丁度県道路面高になり追加スペーサ不要でした。

そこで4mm厚コンパネスペーサを接着固定しました、写真下側は1mm弱の余裕です。

洞門側接合部を確認すると双方の石垣台座が干渉するので、洞門側石垣上辺の48mmはそのままにして、45mm幅で製作した台座下部の干渉部分を約4mm削り取りました。 県道側石垣の駐車帯石垣接合部も現物合わせで、白色斜材に石垣材貼れば合いそうです。

採寸して駐車帯洞門側石垣材を切り出し、前加工して貼り付けました。 本人は隙間なく貼ったつもりでも少し隙間が空いてます、カメラの目は非情なので仕方ありません。

駐車帯ベース側から見るとこんな形状で、県道側を標高差に合わせて約2mm高くしてあります、洞門側からスロープを下って進入する形です。

組み合わせ確認、まず問題なさそうです。

晴天日に塗装しました、石垣色として無難なグレー、百均調達のスプレーです。 陽光下で少し艶がありますがウェザリングするので大丈夫です。


ではまた。

1963年 鉄道の話題 首都圏編

引き続き首都圏の話題からです。


◆国鉄編
輸送力増強中心の関西に対し首都圏はバラエティに富んでます。

1963年末から九州行ブルトレ牽引機がEF58からEF60 500番台に交替する予定になっており、7月末には試運転が行われてます。

10月末には完成したEF60 501機が貨物列車牽引で足慣らししてます。

新型電機話題の東海道に対し、北の玄関上野では発着蒸機列車が3本/日に減ってます。

DD20はDD51の1基エンジンDLとして試作されましたが、用途が重なるDD13に対し際立った特長がなく、試作で終わりました。

関西でも運転されてた海水浴臨時列車、関東では三鷹-大磯間に運転されてました。 新宿から山手貨物線・品鶴貨物線、年末の鶴見事故発生現場を通り東海道本線のルートです。

新清水トンネル着工に先立ち、高崎以遠上越線の複線化工事も進んでました。 貨物列車と擦れ違う上り列車は準急『清津』です。 客車列車準急は普通の存在でした。 電車は騒音と振動で優等列車に向かないの常識を破ったのが80系、完全に覆したのが151系でした。

京浜急行と横須賀線間の三浦半島丘陵宅地開発の推進力になったのが、京浜東北線が延伸された根岸線で、建設が着々と進んでました。

日暮里駅前に5色の噴水が出現した話題です。

東海道本線は写真の川崎-鶴見間の他、横浜-大船間にもロングレールが敷設されてる事は良く知られており、数分間ジョイント音のない乗車感覚を楽しんだものです。 消防ホースで水を掛けて冷やす必要があったとは、どんな作業ミスだったのでしょうか。

土地の登記簿は結構いい加減な物で、境界杭が紛失してると、厳密に測量しないと解りません。 東北本線が日本鉄道時代と言いますから、明治時代からの鉄道と民家間の所有権争いが決着し、複線化を機に農家庭先の第4種踏切が消える事になりました。


◆私鉄編
首都圏私鉄編は話題が多い京急からです。
◆景急
京急は品川-横浜間で国鉄と直接競合なので、早い時期からスピード競争をしてました。

この年に京浜久里浜-野比間が延伸開業してます。 その後久里浜線として1966年に三浦海岸まで延伸開業しました。

この延伸開業に合わせ、京急最大の久里浜工場が開場してます。

高架品川駅から延伸し、地下に潜る区間の工事現場です。 国策事業新幹線建設工事と異なり、都心1等地での民間事業者工事、工事完了して都営1号線と直通運転が開始されたのは5年後の1968年6月でした。

『都心乗入』の4文字に京急の強い思いが込められてます。


◆東急
東急沿線で育ち、東急で高校通学したので思い入れがあります。

東急ステンレスカーは試作的な5500系を経てカルダン駆動・回生ブレーキの6000系に始まりますが、大量増備されたのが7000系でした。 ヌメッとした6000系に対しキリッとした好男子でした。


懐かしいのは右に顔を見せてる3000系、物心付いて始めて見た電車だからで、急行運転なく、3000系MMT3連が渋谷-桜木町間を走っでました。 高校通学も3000系でした。

東急7000系が小田急線を借りて新型台車の高速試験をしてます。 当時の両社路線網でどのルートで乗入れたのか想像が付きません。

私鉄と営団地下鉄相互乗り入れを最初に実施したのは日比谷線です。 先に開業した北千住-東銀座間で東武北越谷までの直通運転が開始されてました。 南側は東急中目黒駅接続で、この年2月に始まった工事の様子を、隣駅祐天寺が最寄り駅だったので見てます。

工事は1年半で完成、1964年8月に日比谷線が全線開業し、北千住-日吉間の直通運転が開始されました。 それ以前東急渋谷から銀座線で都心に向かってた通勤客が日比谷線を利用する様になり、限界に達してた銀座線輸送のバイパス機能を果たす様になりました。


◆その他
その他の関東私鉄関連話題です。

デラックス特急1720系登場2ヶ月前に、東武特急1700系が三つ目追加改造を受けてます。

横浜と海老名を結ぶ相鉄線は関東私鉄の中では準大手、関西の山陽急行電鉄の様なポジションです。 キハ35系を連想させる様な飾り気のない6000系の第3編成が増備されました。

関東の非電化ローカル小湊鉄道にも実用性一点張り増備車です。


ではまた。