Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑧55年前の旅

筆者始めての親を離れた遠距離旅行先は東北で以前鉄の履歴書-16 東北研究旅行で3回に渡り紹介しました。 55年前で記憶定かでない部分もありますが時刻表で追ってみます。

【1964年9月時刻表復刻版】
詰まらん事に気付きました、比較に使ってる2020年2月号は税込み¥1,205、税抜きの物価上昇率は7.3倍、この旅行コスト算定にはコレ使います。 当時ラーメンは¥50、現在相場は¥700前後、7.3倍¥375で食べられるラーメンはごく限られてますがね(笑)


3-7.東北研究旅行
高校入学し遠くへ行ける、ただそれだけの理由で地理部に入部しました。 部活で開通前田園都市線実地踏査した話は以前紹介してます。 1年生時研究旅行先は山陰、大期待も集中豪雨山陰本線不通で直前中止、2年生時は部長を務め東北を研究旅行先に選びました。


顧問教師から『旅程は任せるが、参加費を6千円以下に抑える事』と厳命がありました。 7.3倍で¥43,800ですから公立高校通学生夏合宿費用として妥当な額だったと思います。 旅行ガイドもロクにない時代で、どうせ行くなら三大祭りの時期と無謀な計画でした。

【既報本シリーズから転載】
この時刻表の2年後なので値上げなしかあってもわずか、山陰は東北より学割で¥550高価です。 多分前年山陰参加費の上限も6千円、先輩部長は計画立案に苦労したと思います。


◆1966年8月4日
それまで北は黒磯までしか旅行経験がなく『白河の関』を越えた東北は未踏の地でした。

上野22:15発急行『第2男鹿』で山形へ向け出発です、2等自由席なので入線1時間前を目途に上野駅地上ホーム改札口20時または20時半集合だったと思います。 年末帰省ラッシュ時に駅前広場に設営されるテント村で待つ風景が恒例でしたが、盆帰省には早く東北三大祭は知られていても観光客が押し寄せる時代ではなかったので、酷い混雑はありませんでした。

山形まで乗車なので個人的には機関車に近い10号車希望でしたが、並ぶ場所は上野駅ホーム先端、中央が乗り換えも便利の旅慣れた顧問教師の一言で6or7号車の列に並びました。 21:44入線乗車、我々は列の前から4・5番目で参加者約10名が楽に座席確保できました。

筆者には列車に乗るとすぐ眠れる特技があり、この時も座席確保して腕時計アラームを3時前にセットし発車時は爆睡だったと思います。 黒磯の機関車交換、その先未踏の地ですが真夜中では何も見えないからです。


◆1966年8月5日
アラーム3時前セットは奥羽本線板谷峠越えを見たかったからで、往路しかここを通らない旅程だったのです。 卒業してから一人旅で来れば良いとは考えられませんでした。

【当社生野駅嵩上げホーム】
福島停車時間6分の間にホームに降りてみました。 駅舎と繋ぐ跨線橋はずっと後ろ、丁度ホーム上屋が切りる辺りで前へ進むと2.5-3mで30cm下がる段差があり、その先2両分のホームが低くなってました。 前年盛岡電化で電車特急/急行が増発され、優等列車停車位置だけホーム嵩上げ工事が行われたのです。 他でも同事例があり生野駅に取り入れました。

福島-米沢の山間区間1時間弱は、良く見ようとデッキに出て扉を開け手摺を掴み喘ぎながら峠越えする列車から、雪覆い建屋内の複数スイッチバック線路配置を観察しました。 米沢到着時は白々明けで腕はパンパン、猛烈な睡魔に襲われ席に戻って爆睡でした。

山形から仙山線始発列車で山寺へ行きました、立石寺訪問が目的です。 乗車した814レは1等車連結電機牽引の客車列車です。 記憶検証の為に仙山線電化史を調べました。

山寺-作並間には5千mを越える仙山トンネルがあり開業時から電化されてたと知りました。 それも交流電化、交直接続試験線に選ばれた理由だった様です、この旅は交流化前です。

【宝珠山立石寺】・・・山形県観光協会HPより
現在の寺社は営業時間があり拝観料徴収するので早朝訪問では入れませんが、当時はそんな事もなく6時半でも中に入り見る事ができました。

山寺駅から山門まで10分足らず、滞在2時間でゆっくり見て羽後千歳へ引き返しました、ここで勘違いに気付きました。

左沢線分岐駅北山形と仙山線分岐駅羽後千歳を取り違えてたのです。 山寺から戻り奥羽本線下り列車に乗り換えたこの線形の駅は羽後千歳でした。 古い記憶とは不思議な物で印象に残った断片的5-10秒がショートムービーとして長く脳に残りますが間が抜け落ちます。


この時も福島駅ホーム、板谷峠スイッチバック通過風景を始め、立石寺岩壁のお堂とか羽後千歳駅秋田/仙台方線形、そしてこれから触れる映像は残ってますが、他はスッポリ抜け落ちてます、人間の脳は印象の薄い記憶は消す様にプログラムされてるとしか思えません。

ありふれたローカル駅を憧れのキハ82系特急『つばさ』が通過する風景で、この旅天童付近と思い時刻表を調べましたが該当駅なし、それに初訪問の東京高校生が下車して寄る訪問先がありません。 1969年東北一人旅時の記憶の様です、記憶に日付タグ付いてません。


1969年の東北旅行は羽越本線経由で酒田から入り、五能線、花輪線、山田線、釜石線に乗車の乗り鉄系、8620/C58探訪旅で、十和田湖や龍泉洞を訪問しました。 青森-仙台間夜汽車ホテルも利用し7-8日の日程、上記記憶場所特定には当時の時刻表が必要です。

羽後千歳から大曲まで鈍行列車に4時間半揺られた様です、となると昼食は新庄の駅弁だったでしょうね。 この日の宿は大曲で間違いなく、訪問先は地理部らしく日本一深い湖田沢湖だったと考えられます。 と、色々推定してると湖を見た淡い記憶が蘇ってきました。

大曲接続生保内線で終点生保内へ、田沢湖見学して大曲18:39着、夕闇迫った頃宿到着だったので多分間違いないでしょう。 ジオコレ旅館の様な木造2階建で1泊2食¥650でした。


◆1966年8月6日
翌朝の大曲駅下りホームはかなり混んでました、通勤列車だった様です。

7-8両編成の蒸機列車で、混雑を避け後尾に乗車しました、数駅目で水田脇に停車し???と思ってると発車後にホームが現れました、ホームは4-5両分だったのでしょう。 8月6日は竿灯祭りの日、朝訪問する間抜けな旅程でした、準備中会場見て駅へUターンです。

秋田9:25発準急で八郎潟へ、時刻表一日市(ひといち)となってますが1965年に八郎潟と改称されてます。 目的は干拓事業進展視察、地理部研究旅行なのでアカデミックでした。

【現在の風の松原】・・・林野庁HPより
その後東能代へ移動し下車、昼食後風の松原を見に行きました、日本一の防風防砂林です。 8年ほど前に再訪しましたが既視感ゼロでした。

東能代から急行『日本海』乗車で弘前へ、途中鷹ノ巣で大ヘマやらかしました。 旧客ですからドアは手動で開きます。 短い停車時間に阿仁合線の様子でも見に行こうとしたのだと思います、10km/h以下になったの見計らってホームへ飛び降りたらすってんころりん、顧問から『無茶すんなよ!怪我されたら困るから』と叱られました。

【急行『日本海』編成】
またまたあやふやな記憶で恐縮ですが、旧客列車乗車時に後方で蒸機音がするのでデッキから見たらD51後補機が付いてました、急行『日本海』矢岳峠越えだったかもしれません。


弘前では弘前城へ行きました、始発DCで青森20:12着、ここで集合時間決めて自由時間にしました。 ねぶた祭やってたかどうか解りません、青函連絡船や青森駅構内の方か祭りよりはるかに興味が高かったのです。

青森から急行『八甲田』の夜汽車ホテルでした、座席確保してから牽引機確認に行くとC61でした、尻内辺りからC60補機が付いたと思いますが、深い眠りの中でした。


◆1966年8月7日
この日の夜行で仙台から東京へ帰るので実質最終日です。 今にして思えば東北本線全線電化前の青森-盛岡間をせめて車内からでも昼間見る旅程を組めなかったかと悔やまれます。

起されたのは北上を過ぎ水沢が近付いた頃だと思います、各駅に乗り換えて平泉へ、ここで眠気が吹き飛ぶ光景に出くわしました。 平泉駅は2ホーム3線駅でその外側にD62約10両が連結停車してたのです、前年10月盛岡電化で廃車された一ノ関機関区在籍機の解体待ち仮留置だったと思います。 見逃せず皆を待たせてスナップ撮りましたがネガはどこへやら。

【毛越寺庭園】・・・毛越寺HPより
さすがに天下の中尊寺、この時代でも営業時間と拝観料があり入れないので、時間潰しに毛越寺庭園を見に行きましたが、とても素晴らしく中尊寺金堂より強く印象に残りました。 後年再訪した時は、もちろん営業時間ありで拝観料を徴収されました(笑)

【厳美渓】・・・ウィキペディアより
中尊寺へお参りした後はバスで厳美渓に行きました、詳細な記憶ありませんが、バスで一ノ関へ出て夕方には仙台に到着してます。 この夜も集合時間を決め自由行動、七夕祭りを長いアーケード街で楽しみました。

青森発急行の選択肢もありましたが、座席確保が容易な始発急行『青葉』で帰京、4泊(車中3泊)5日の何とも慌ただしい初東北旅行でした。


若いから可能な無茶苦茶最小費用日程で、歴史にイフはありませんが、今この時刻表で計画するなら1日早く発ち夜汽車ホテルと安宿交互の5泊6日にしました。 中尊寺を翌日回しで準急『はやちね1号』で釜石へ、山田線/岩泉線で龍泉洞見学、岩泉泊で翌朝盛岡へ出ても、中尊寺経由仙台夕方着可能です。 景勝地厳美渓パスですが、鉄の街、リアス式海岸、鍾乳洞の方が地理部らしく6千円に収まったかと、所詮思考ゲームですが。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録⑦東北電化

今回は東北地方電化の歴史とそれに伴う優等列車の変遷です。

【1964年9月時刻表復刻版】


3-5.電化が進んだ1960年代
東北地方の1960年時点の電化は、輸送力増強の為に早く電化された福島-米沢間と交流電化実験線に選ばれた仙山線北仙台-作並間を別にすれば、南から伸びてきた交流電化の波がようやく福島に到達した処でした。


◆東北本線
1960年代に東北地方電化が一気に進み走行車両が変わりスピードアップが図られました。

電化の波は翌1961年に仙台に到達し、サン・ロク・トウ大改正で上野-仙台間に電車急行が走り始めました。 急行『まつしま』所要時間は5時間15分で、DC特急の4時間43分-56分より短縮できず、性能をフルに発揮しないセーブ運転してたと推定してます。

【483系特急『ひばり』】・・・ウィキペディアより
特急電車化は盛岡電化の1965年で、483系(後485系)『ひばり』が仙台まで4時間を切りDC時代から1時間短縮しました、同時に盛岡行『やまびこ』が運転開始されてます。 未確認ですが上野-仙台間電車急行も所要時間4時間半前後に能力を開放したと思います。 東北本線全線電化完成はヨン・サン・トウ大改正直前の1968年でした。


◆常磐線
本線を名乗らない全国一長い路線常磐線が何故常磐本線でなかったのかは、予算本線/高徳本線/徳島本線に対する土讃線と共に時刻表マニア筆者の永遠の謎です。 余談はさておき常磐線には仙台以北へのバイパスルートの役割があり電化優先度が高かった様です。

常磐線電化は直流電化されてた国電区間取手から先の交流電化が1961年に始まり、この時刻表1964年では平まで、全線電化完成は1967年です。 東北本線/常磐線電化進展と特急増発の動きに合わせ東北地方優等列車は複雑な動きを見せてます、それを追ってみましょう。

【特急『はくつる』編成と牽引機】・・・ウィキペディアより
この時刻表翌月新幹線開業に伴うダイヤ改正で寝台急行『北上』が20系特急『はくつる』に置き換えられ東北本線経由で運転開始してます。 直流・交流電化・非電化区間を走るので、牽引機はEF58/ED71/C61と入れ替わり、盛岡-青森間はC60の前補機が付きました。 特急ならスピードアップが常識ですが13分所要時間が長いのは東北本線経由が理由です。

【特急『はくつる』『ゆうづる』編成と牽引機】・・・ウィキペディアより
翌1965年10月盛岡電化のタイミングで寝台急行『北斗』が20系の特急『ゆうづる』に置き換えられました。 『はくつる』牽引機も盛岡までED75、盛岡-青森非電化区間はC61/C60重連からDD51重連に変更され1時間40分スピードアップされ特急らしくなりました。

【EF80牽引の特急『ゆうづる』】・・・ウィキペディアより
特急『ゆうづる』は平までEF80牽引、その先非電化区間ではC62が牽引する姿が常磐線電化完成まで2年間見る事ができ、折からのSLブームで多くの撮り鉄さんが押し寄せました。 常磐線電化翌年1968年2月の初渡道で『ゆうづる』を利用しました、ナハフ座席車です。

【特急『はつかり』『はくつる』『ゆうづる』編成と牽引機】・・・ウィキペディアより
青森電化完成後のヨン・サン・トウ大改正で『はつかり』を含めた583系電車化が一気に進みました。 余剰になった20系で急行『十和田』を『ゆうづる』として特急化しました。

【583系寝台特急『ゆうづる』】・・・ウィキペディアより
1969年2月の2回目の渡道では583系『ゆうづる』を利用しました、スピードアップで上野発時間が前年より30分ほど遅かったと思います。


◆奥羽本線
奥羽本線は路線距離が長く福島/山形/秋田/青森4県の県庁所在地を結ぶ幹線ですが、東北本線裏街道の側面があり、国鉄の扱いも表街道優先、電化も車両配置も後回しでした。

【奥羽本線昼行急行『鳥海』編成表】
東北本線昼行急行『みちのく』に対応する様に奥羽本線にも秋田までの昼行急行『鳥海』が運転されてました。 1等車2両食堂車併結は同じですが会津若松行『ばんだい』併結で短い編成でした。 ちなみに『鳥海』は列車名を羽越本線急行に譲り『たざわ』と改称した後、国鉄の同一路線同一列車名政策により『第■男鹿』と再度改称されました。

【前後より転載】
夜行急行では東北本線との格差が広がり、寝台急行も食堂車併結もない継子扱いでした。

電化も後回しでヨン・サン・トウ大改正前に板谷峠交流化と合わせ山形まで電化され、特急『やまばと』が運転開始しました。 その後は秋田-青森間が先で、秋田-山形(羽後千歳)含めた全線電化は東北本線より7年遅い1975年、無煙化達成の年までずれ込みました。


◆羽越本線
最後は羽越本線です、『電化が進んだ1960年代』に合致しませんが一応触れておきます。

この時刻表の時代1964年には羽越本線の電化計画さえありませんでした。 電化計画決定が1969年、完成が1972年のスピード工事です。 国鉄が奥羽本線秋田-山形間より日本海縦貫線電化を優先した結果です。

【485系化された特急『白鳥』編成表】・・・ウィキペディアより
羽越本線と同時に白新線も電化され日本海縦貫線電化が完成。特急『白鳥』は485系電車に置き換えられ、大阪-青森所要時間は1時間50分短縮され13時間40分になりました。


3-6.緻密な都市連絡優等列車網
東北地方は南北に長いだけでなく東西も幅広く間には山脈が走ってます。 東北中心都市仙台と近隣県主要都市を結ぶ優等列車が数多く存在しました。 現在は高速バスが果たしてる役割を担ってたのです。 すべてDCでキハ58(or 55)系の運用だったと思います。

仙台-秋田から見て行きます。 3本の優等列車が運転されてまし内2本は小牛田から陸羽東線で新庄に出て秋田に向かう準急『たざわ』が2往復、所要時間は5時間前後です。 列車名下に*マークのある列車は分割併合がある事を意味してます。

【急行『あけぼの』編成表】
急行『あけぼの』はDC6両編成、仙台-秋田間を4時間43分で結ぶ最速列車です。 現在は東北/秋田新幹線で1時間半、1/3以下に短縮されてます。 この列車は北上から横黒線経由で秋田へ向かい終着は青森、仙台-秋田と秋田-青森を結ぶ二つの役割を持ってました。

仙台-山形は山を越えたお隣さんで、準急『仙山』3本と、米沢から米坂線で新潟と結ぶ準急『あさひ』2本の計5本で結ばれてます。

庄内地方は山形県ですが独立した文化圏を形成してます、仙台-酒田間に2往復の優等列車準急『もがみ』『月山』が運転されてました。 お気付きの読者も居ると思いますが、『たざわ1号』と『もがみ』仙台発は7:28、『あさひ2号』と『月山』は仙台発16:27で同じです。 多くの準急列車が分割統合運転をしてました、仙台発7:28は極め付きです。

時刻表によると仙台発7:28準急は秋田行『たざわ1号』(キロ連結3-4両)、酒田行『もがみ』(2両)の他に盛岡行『くりこま1号』(キロ連結で3-4両)、盛行『むろね1号』(2両)の4準急混合編成で仙台出発時は10-12両の堂々たる編成でした。


小牛田で『だざわ1号』と『もがみ』を分割した後、一ノ関で『むろね1号』を分割すると共に盛発列車を併結し、更に花巻では釜石発盛岡行準急『はやちね1号』(キロ併結3-4両)を併結します。 仙台-盛岡の全運転区間で3列車分割、2列車併合し8-10両で盛岡着です。

小牛田で『くりこま1号』から分割された『たざわ1号』『もがみ』は陸羽東線で新庄に到着、ここでも分割併合です。 時刻表によると米沢発準急『もがみ』には酒田行に加え秋田行が併結され山形-秋田連絡列車の性格もあり、編成は多分各2両の4両です。


新庄では奥羽本線からの『もがみ』と陸羽東線からの『たざわ1号』『もがみ』が各2両交換し、酒田行『もがみ』4両と秋田行『たざわ1号』5-6両で目的地へ向かってます。  一体新庄でどの様な分割併合作業が行われたのでしょう?、貨車の入替作業に似てます。

準急『あさひ2号』(2-3両)と準急『月山』(4両)は仙台16:27発仙山線で山形に向かいます。 山形で分割し前方『あさひ2号』は米沢/新潟へ、後方『月山』は山形-羽後千歳間を逆走し新庄へ向かいます、新庄から陸羽西線、余目で酒田行と鶴岡行各2両を分割します。 そして『月山』は新庄で仙台を10分後に出た準急『たざわ2号』に接続しており、午前の『もがみ』と同じく山形-秋田連絡列車機能を果たしてます。  

仙台-新潟間は仙山線・奥羽本線・米坂線ルートの他に東北本線・磐越西線ルートもあります。 仙台-新潟所要時間は1時間近く長く、通しの乗客は少なかったかもしれませんが、仙台-会津若松、福島-新潟連絡列車として準急『あがの』『あいづ』が運転されてます。

田沢湖線開通前の盛岡-秋田連絡は花輪線経由で、準急『よねしろ』が2往復運転されてます。 前出『くりこま』『むろね』『はやちね』は複数本運転ですし、他にも東北域内連絡準急が運転されてました。 分割併合は運転密度を上げず、コストを掛けずに多様な列車を運転する国鉄の苦心の産物で、統括制御可能で全車動力車のDCだからこそできた事です。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録⑥

東北地方2回目です。

【1964年9月時刻表復刻版】


3-2.蒸機主役の1960年代前半
国鉄の動力近代化計画は1959年に策定され1960年から開始されました、この時点で無煙化と蒸機の運命が確定した訳です。 しかし一朝一夕にできる物ではなく1960年代前半の東北地方はまだ蒸機が主役でした、それは主要機関区に在籍する機関車を見れば解ります。


◆青森機関区
北端青森から1961年とこの時刻表1964年の対比で見て行きます。

1961年の最大両数は9600、D51と共に東北/奥羽両本線貨物列車を牽引してたのでしょう。 旅客列車はC57/C60/C61と分担が明白な配置です。

1964年の最大両数はD51で9600の5両を置き換えた形になってます。 また旅客用もC57がC60に置き換えられてます。


◆秋田機関区
次は東北地方日本海側の拠点秋田です。

青森で最大両数の9600が1両も居らず8620が5両在籍してます。 無煙化直前まで8620が主力だった五能線/花輪線運用機は弘前/大舘/東能代所属で、貨物集散拠点秋田操車場の入替機ではないかと思われます。 C11は男鹿線用と生保内線用が含まれてるかもしれません。


国鉄初の本線用ディーゼル機DF50が13両配属されてます。 DF50は特定機関区に集中配属され、紀勢本線/山陰本線/土讃線などで運用されてました、ただし後に登場するDD51/DE10に比べ非力で、無煙化効果はあってもスピードアップには寄与しませんでした。

1964年にはDF50がC57を置き換える形になってます。 無煙化の立役者DD51配備が開始されてましたが、秋田には現れてません。 筆者初の東北旅行は1966年ですが何故かC57には出逢ってません、その少し前に東北地方在籍数が急速に減ってた事が解りました。


◆盛岡機関区
最後は盛岡です。

東北地方で早く電化された東北本線でも1961年はようやく仙台電化完成でした。 盛岡は担当線区が多く詳細な運用は解りませんが、北の大動脈東北本線の旅客輸送をC60が、貨物輸送を一ノ関機関区に20両大量配備のD62と共に盛岡のD51が支えていたと推定されます。 

1964年にはDD51が4両配属され増加する旅客需要に対応してます。 貨物輸送は一ノ関機関区18両のD62と共に蒸機主役に変化はありません。

その後のDD51蒸機置き換え進展が気になり、仙台-盛岡間電化完成半年前の1年後配置表を確認すると、1年でC60が9両減りDD51が8両増えてます。 一ノ関機関区D62は18両で変化なし、盛岡電化で職場を失い廃車されました、使用可能線区限定重量級蒸機の宿命です。


3-3.特急列車は4本
北海道の項で特急は『おおぞら』1本という話をしましたが、特急網構築開始がサン・ロク・トウ大改正、大安売り開始がヨン・サン・トウ大改正からでした。 1964年の東北地方を走る特急は4本で全てDC昼行、20系夜行特急も電車特急もまだ存在しませんでした。


◆特急『はつかり』
常磐線経由で東京と仙台・盛岡・青森を結び、同時に青函連絡船夜行便、函館で『おおぞら』に接続し札幌・旭川/釧路に至る北行最速列車です、キハ81系で運用されてました。

上下ダイヤ全停車駅を記載しました、常磐線内停車駅は水戸と平のみ、仙台の先は盛岡・尻内で6駅目が終点青森です。

【特急『はつかり』】・・・ウィキペディアより
151系『こだま』で切り拓いた新時代特急列車のボンネットスタイル継承ですが、スマートな151系に対し武骨で厳めしい顔で、鉄人28号を連想し好きではありませんでした。

【『はつかり』編成表】
編成は1等車2両と食堂車を含む全席座席指定の10両編成でした。 特急に自由席が設定されたのは、特急が急行化して特別な列車でなくなった1972年のエル特急からです。


◆特急『白鳥』
大阪と福井・金沢・富山・新潟・秋田・青森の日本海側を結び、同時に青函連絡船夜行便、函館で『おおぞら』に接続し札幌・旭川/釧路に至る日本海縦貫線最速列車です。 サン・ロク・トウ大改正で登場し、キハ82系で運用されてました。

新津から東北域内上下運転ダイヤを掲載しました、主要都市だけの停車で青森から新津が7駅目、ほぼ1時間に1回停車するペースです。

【『白鳥』編成表】
特急列車は大幹線以外1路線1本が原則の時代で、1列車に複数役割を与えてました。 編成表で明らかな様に大阪-新潟以遠は8-14号車、大阪-北陸3県と、北陸3県-東京間は1-7号車の編成で、それぞれに食堂車が連結されてます。 特急に食堂車は当り前だけでなく、運転時間が長く停車時間は短い、特急車両は窓が空かず駅弁買うのも難しかったのです。


大阪-青森日本海縦貫線には急行『日本海』が運転されてましたが、『白鳥』所要時間15時間半に対し22時間20分、7時間近く短縮した訳です。 『白鳥』上野行が担ってた役割はヨン・サン・トウ大改正の特急大増発で『はくたか』へ機能分割されました。


◆特急『つばさ』
東京と山形・秋田及び仙台・盛岡を結ぶ奥羽本線初の特急で、サン・ロク・トウ大改正で登場し、キハ82系で運用されてました。 東北本線東京-盛岡間特急2往復化の役割もあり、『白鳥』と並び長編成です。

分割・併合があるので上下ダイヤを分けました。 東京-秋田を7時間半で結んでます、秋田では2分で『白鳥』に接続するダイヤです。 盛岡行は『はつかり』が停車しない一ノ関・花巻に停車します。

上りの運転ダイヤです、下りと同じく秋田3分で『白鳥』と接続してます。 仙台基準で見ると『はつかり』との運転時間帯差が下りで48分、上りで53分と1時間未満です。 日に2本の特急運転時間帯が近いのは運転ダイヤが東京基準で、地方を朝出て東京へ、東京をできるだけ遅く出てその日の夜に地方へ戻る様に組まれてたからです。

【『つばさ』編成表】
盛岡行が基本編成より1両短い6両の13両編成です。


◆特急『ひばり』
東北中心都市仙台と東京を結ぶ、仙台早朝発夜着時間帯の特急です。

東京滞在時間4時間ですが仙台から東京日帰り出張が可能な運転ダイヤになってます。

【『ひばり』編成表】
『つばさ』盛岡行と同じ6両編成で、共通化車両運用メリットが目的だと思いますが、多分国鉄東京-仙台間優等列車の史上最短編成です。


3-4.上野発夜行列車花盛り
かつて北の玄関口と言われた上野のターミナル駅機能は、新幹線東京駅乗り入れにより大きく低下しました。 コロナ前東京訪問時に数十年振りに上野駅地上ホームを見に行きましたが、閑散として多くの始発終着列車が出入りした昔の面影は全くありませんでした。

上野発東北本線夜行列車は7本、編集の都合上磐越西線を含みます。 内2本は普通列車所要時間20-21時間です。 東北本線なのに青森行急行が『八甲田』だけなのは、常磐線経由がメインルートだったからで、『八甲田』には仙台-青森間夜行列車の役割もありました。

【急行『八甲田』『第4ばんだい』編成表】
『八甲田』は青森行急行で寝台車1両食堂車なしの安作りの急行で、座席確保が比較的容易でした。 仙台まで電化されてましたが磐越西線は電化前で『第4ばんだい』はDCです。

【急行『青葉』編成表】
急行『青葉』は東北地方夜行優等列車唯一の電車でした。 交直両用、交流50Hz/60Hz車両展開の型番は忘れましたが交直両用車両の運用で、サハシは営業中止です。 なお『北星』は寝台急行で編成表を省略します。 

常磐線夜行列車は普通列車1本含み7本で全て青森行です、211レ所要時間は22時間です。

【上野発常磐線経由青森行急行編成表】
『北斗』『北上』は寝台急行で後に20系客車特急に昇格しました。 『みちのく』は東京-青森間唯一の昼行急行で、『はつかり』と同じ青函連絡船に接続し、所要時間は『はつかり』+3時間でした。 そして注目すべきは客車時代長距離急行の半数近くに食堂車が連結されてる事です、電化/急行電車化の際にサハシが作られた背景だと思います。

上野発山形・秋田方面夜行列車は6本、5本の急行と普通列車1本です。 3線で上野-青森間夜行普通列車が4本もあり利用客があったという事です。 ここまで上野発東北方面夜行列車を見てきましたが全部で20本、上野発夜行列車には上越/信越/北陸方面もあり総数25本以上です。 現在はある?、多分ゼロ、旅のスタイル変化の大きさに驚かされます。

【上野発山形・秋田方面夜行急行編成表】
寝台急行とは座席車がない編成を差しました。 初期の20系『ゆうづる』はナハ/ナハフが連結されており厳密にば寝台特急ではありません。 ましてや寝台車を連結しただけの『津軽』は只の急行で、これを『寝台急行』と銘打って販売するKATOは無知か詐称です。


急行『出羽』はキハ58系運用で上野を10両編成で出発し前後5両は山形止り、山形-新庄間は当社急行『ろふと』と同じ5両編成です。 新庄で更に2両減らし陸羽西線で酒田に辿り着くのはわずか3両でした、それで混雑や乗客苦情が出ない旅客密度分布だったと解ります。


ではまた。