Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑨ターミナル駅今昔

随想連載で一向にレイアウト製作ブログらしくない状態が続いて申し訳ありません(汗) 本シリーズは東北地方を終了し、さて次をどうするか、関東?関東甲信越?括り方が難しく、とりあえず東海道/中央本線を除く関東上信越でスタートする事にしました。

【1964年9月時刻表復刻版】


4.関東上信越編
東京起点方面別に括ったらどうかと考え、東京のターミナル駅について考えてみました。
4-1.消えたターミナル駅
東京のターミナル駅と言えばまず東京駅、そして存在感は低下しましたが上野駅もまだその機能を果たしてます。 当時の新宿駅は中央本線と小田急箱根へのターミナル駅でしたが、成田空港開港NEX運転開始から守備範囲を広げ、現在は伊豆方面や東武日光方面優等列車始発駅になってターミナル駅機能がより大きくなり、今後下がる事はないでしょう。


また当時は山の手都民乗換え便宜を図る為に一部の急行と準急停車駅に過ぎなかった品川に新幹線駅が設置され、リニア始発駅になると新たなターミナル駅機能を発揮するでしょう。 そんな中1960年代のターミナル駅で,、その機能を完全に喪失したのが両国駅です。

【1960年代の両国駅航空写真】・・・国土地理院DBより
当時の両国駅は上野駅の規模を小さくし左右反転した配置で、下側高架2線の国電ホーム、上側地上部分に4線の総武/房総方面列車始発ホームがありました。 その奥にはかなり広いスペースの留置線や貨物扱い所がありました、現在国技館/江戸東京博物館の場所です。

ターミナル駅両国を支える機関区は新小岩にありました。 東京の反対側に8620/C57が居た訳ですが、住んでた目黒から見ると隅田川の向こうは特別な用事でもなければ行く事のない遠い場所でした。

歴史を紐解いて見るとターミナル駅両国黄金時代は90年前の昭和初期、次第に地盤沈下してたのが、総武/房総地区気動車集中投入とDC優等列車増発により、1960年代は消えゆく前の最後の輝きを放った時代でした。 現在は総武線快速が通過するただの各停停車駅です。

現在の両国駅付近地図】・・・国土地理院DBより
現在の両国駅付近は旧終端ホームの場所から総武快速線が隅田川の下を潜り、東京駅地下ホームへ向かってます、そして終端線が1本残ってます。

【両国駅3番線ホーム】・・・ウィキペディアより
それが3番線ホームで定期列車発着はなく、イベント会場や団体列車用に利用されてる様です、大相撲観戦ツアー列車が使うのかもしれません。


4-2.総武/房総方面の旅
東京生まれ育ちで近いのにNEX除くと、この方面への鉄道旅は3回しか経験ありません。

【拙ブログ2020.06.02更新】
初の総武/房総方面の旅はこの記事の1961年夏、千葉まで国電で10系気動車に乗り換え両国始発ではありませんでした。 目的地は東浪見、大網で進行方向逆転の記憶があります。

【1964年9月外房線時刻表 午後分】
ほとんどのDC普通列車が千葉始発で接続国電時刻掲載ですが、外房線午後に4本の直通列車があります。 準急『外房4号』は新宿始発で秋葉原停車、『外房3号』『外房5号』と勝浦行221レ蒸機列車の3本が両国始発です。 進行方向逆転する大網停車時間が長くなっており、221レは11分停車、機関車はどうしたのでしょうか。

【1960年代の大網駅航空写真】・・・国土地理院DBより
両国駅付近航空写真を使ったDBで確認すると千葉方面は緑矢印、東金方面がオレンジ矢印、外房方面は黄色矢印で進行方向逆転でした。 駅構内拡大しても転車台見当たらず、新小岩8620かC58が本務機では逆推進運転は困難、交替機関車が待機してたのでしょうか。

【現在の大網駅付近地図】・・・国土地理院DBより
東金⇔外房直通列車がないので、現在は駅舎位置を変更してY字型駅になってます。 このDBで昔の空撮画像眺めるのが楽しくなり、同様な駅舎変更した塩尻も眺めてみました。

【1960年代の塩尻駅航空写真】・・・国土地理院DBより
中央下に旧塩尻駅、右下新宿方中央東線。直進する左下が名古屋方中央西線、上に伸びるのが松本方篠ノ井線です。 当時は中央東西線直通列車が少数運転されており、名古屋⇔松本/長野間は塩尻で進行方向逆転してました、スイッチバックではありません。

【現在の塩尻駅付近地図】・・・国土地理院DBより
現在は中央西線⇔篠ノ井線直進線路を追加し、塩尻駅が移動してこの様になってます。 団体専用列車用旧線を1本残しデルタ線になってます。

【1964年9月成田線時刻表部分】
2度目は1963年正月。3日ではなかったかと思います。 中学で知り合った鉄仲間と上野からC58牽引823レで成田へ初詣に出掛けました。 この上野発蒸機列車は1970年代初頭まで運転されてた様で通常はC57、代替機C58で、何故かC57には縁が薄かったです。

【1964年9月常磐線時刻表部分】
順番前後しますが上野⇔我孫子間は本線列車なので国電駅は汽笛鳴らし通過です。 時刻表の昼行急行『陸中』はDC『みちのく』は客車編成、電化された平までの準急『ひたち』と普通列車は電車、そして水郡線準急『久慈川』併結水戸行準急『ときわ2号』はDCです。


国鉄変化発展途上の様子が見えるカオス感がこの時代の時刻表の魅力で、パターン化した最近のダイヤは読む楽しみがありません。 解り易いのは確かでそれで十分ですが(苦笑)

【内房線海水浴臨時列車】・・・鉄道P誌より
両国始発唯一の乗車経験が3度目1966年、前回紹介した東北旅行前に級友と行った内房勝山海水浴1泊旅行で利用した蒸機列車『勝山海水浴号』でした、この写真の1年後です。 前回東京オリンピック時に上野/両国にはまだ蒸機の煙があったと思うと何だか痛快です。


4-3.東京ターミナル駅今昔
消えたターミナル駅両国を肴に総武/房総方面の旅を振り返ってきましたので、東京の他のターミナル駅について当時と今を見てみましょう。
◆東京駅
まずは東京駅、現在から遡ります。

【2020年の東京駅航空写真】・・・国土地理院DBより
左端に皇居お堀、中央左に東京駅、右上日本橋アングルの現在の姿です。 当時の東京駅は1-15番線、八重洲側に2面4線、16-19番線を新設して新幹線開業しましたが、現在どうなってるか全く解りません。 最後の利用は2009年八戸業務出張の際でした。

【2020年2月時刻表より】
従来線/新幹線再配分では足らず1/2番線高架化工事を2000年前後実施したのは知ってましたが、現在在来線10線、新幹線10線まで拡張してるとは知りませんでした。 地下ホーム加えて28線とはスゴイ物です。

【2020年の東京駅航空写真】・・・国土地理院DBより
部分拡大すると高架1/2番線の下に3/4番線が隠れてるのが解ります。 またホーム上屋長で国電11両220m、在来線15両300m、新幹線16両400mの列車有効長差が良く解ります。

【1960年代の東京駅航空写真】・・・国土地理院DBより
1960年代後半の航空写真の様で、東京駅構造は変わってますが、2本の新幹線ホームがありますし、首都高速建設後で大きな変化ありません。 全体に建物が小さい程度です。

【1950年代の東京駅航空写真】・・・国土地理院DBより
更に10年遡ると70年前です。 東京駅に新幹線ホームはなく、右上日本橋も首都高速に上空を塞がれる事なく見えてます、早く発展した首都中心部の差が解るのは大昔です。


◆新宿駅
次に上野駅と思ったのですが、航空写真で見る風景変化も地上駅部分の変化も少ないので割愛する事にし、新宿駅を見ます。

【2020年の新宿駅航空写真】・・・国土地理院DBより
左に副都心高層ビル群、中央右に新宿駅、右下新宿御苑アングルの現在の姿です。 2004-2010年単身赴任で高層ビルの一つが職場だったので馴染みの街です。 当時いつ終わるとも知れなく続いてた駅改修工事が終わり、現在は駅半分以上がビルの下に隠れてます。

【2020年2月時刻表より】
一番下中央・総武緩行下り線は1960年代から長らく10番線でした。 現在16番線になってるのは1-6番線がそれ以降割り込んだからです。

【1980年頃の新宿駅航空写真】・・・国土地理院DBより
新宿は変化が大きかったので段階的に40年前1980年の姿を見てみます。 駅に覆い被さるビルはなく、左手高層ビル群完成は1/3ほど、都庁ビルは敷地確保だけで建ってません。

【1960年代の新宿駅航空写真】・・・国土地理院DBより
1960年代、駅に大きな変化ありませんが左手は淀橋浄水場で、この跡地が高層ビル群になりました。 左下に見える2基の丸いのは初台の伯母の家に行く際に見た大型ガスタンクで、現在の球形でなく円筒形タンク周囲を鉄骨櫓が支えるレーダーサイト状の建造物でした。


実家からも環状6号線南にあった同形状ガスタンクが見えましたが、貯蔵量でタンクが上下し、貯蔵だけでなく圧を掛ける機能もあった様です。 『三丁目の夕日』には欠かせない時代を感じさせる背景でしたが、1970年代初頭に姿を消した物の一つです。


◆国土地理院DB・・・無断リンクを控えます
今回記事に使用した航空写真並びに地図データは皆さんもご覧になれます。 筆者が住む昔山だった片田舎は1978年頃と2007年しかありませんが、実家東京のデータは戦前からあります。 昔の我家、生まれ育った家や当時の空撮写真を眺めるのは楽しいですよ。  


ではまた。

国鉄黄金時代回想録⑧55年前の旅

筆者始めての親を離れた遠距離旅行先は東北で以前鉄の履歴書-16 東北研究旅行で3回に渡り紹介しました。 55年前で記憶定かでない部分もありますが時刻表で追ってみます。

【1964年9月時刻表復刻版】
詰まらん事に気付きました、比較に使ってる2020年2月号は税込み¥1,205、税抜きの物価上昇率は7.3倍、この旅行コスト算定にはコレ使います。 当時ラーメンは¥50、現在相場は¥700前後、7.3倍¥375で食べられるラーメンはごく限られてますがね(笑)


3-7.東北研究旅行
高校入学し遠くへ行ける、ただそれだけの理由で地理部に入部しました。 部活で開通前田園都市線実地踏査した話は以前紹介してます。 1年生時研究旅行先は山陰、大期待も集中豪雨山陰本線不通で直前中止、2年生時は部長を務め東北を研究旅行先に選びました。


顧問教師から『旅程は任せるが、参加費を6千円以下に抑える事』と厳命がありました。 7.3倍で¥43,800ですから公立高校通学生夏合宿費用として妥当な額だったと思います。 旅行ガイドもロクにない時代で、どうせ行くなら三大祭りの時期と無謀な計画でした。

【既報本シリーズから転載】
この時刻表の2年後なので値上げなしかあってもわずか、山陰は東北より学割で¥550高価です。 多分前年山陰参加費の上限も6千円、先輩部長は計画立案に苦労したと思います。


◆1966年8月4日
それまで北は黒磯までしか旅行経験がなく『白河の関』を越えた東北は未踏の地でした。

上野22:15発急行『第2男鹿』で山形へ向け出発です、2等自由席なので入線1時間前を目途に上野駅地上ホーム改札口20時または20時半集合だったと思います。 年末帰省ラッシュ時に駅前広場に設営されるテント村で待つ風景が恒例でしたが、盆帰省には早く東北三大祭は知られていても観光客が押し寄せる時代ではなかったので、酷い混雑はありませんでした。

山形まで乗車なので個人的には機関車に近い10号車希望でしたが、並ぶ場所は上野駅ホーム先端、中央が乗り換えも便利の旅慣れた顧問教師の一言で6or7号車の列に並びました。 21:44入線乗車、我々は列の前から4・5番目で参加者約10名が楽に座席確保できました。

筆者には列車に乗るとすぐ眠れる特技があり、この時も座席確保して腕時計アラームを3時前にセットし発車時は爆睡だったと思います。 黒磯の機関車交換、その先未踏の地ですが真夜中では何も見えないからです。


◆1966年8月5日
アラーム3時前セットは奥羽本線板谷峠越えを見たかったからで、往路しかここを通らない旅程だったのです。 卒業してから一人旅で来れば良いとは考えられませんでした。

【当社生野駅嵩上げホーム】
福島停車時間6分の間にホームに降りてみました。 駅舎と繋ぐ跨線橋はずっと後ろ、丁度ホーム上屋が切りる辺りで前へ進むと2.5-3mで30cm下がる段差があり、その先2両分のホームが低くなってました。 前年盛岡電化で電車特急/急行が増発され、優等列車停車位置だけホーム嵩上げ工事が行われたのです。 他でも同事例があり生野駅に取り入れました。

福島-米沢の山間区間1時間弱は、良く見ようとデッキに出て扉を開け手摺を掴み喘ぎながら峠越えする列車から、雪覆い建屋内の複数スイッチバック線路配置を観察しました。 米沢到着時は白々明けで腕はパンパン、猛烈な睡魔に襲われ席に戻って爆睡でした。

山形から仙山線始発列車で山寺へ行きました、立石寺訪問が目的です。 乗車した814レは1等車連結電機牽引の客車列車です。 記憶検証の為に仙山線電化史を調べました。

山寺-作並間には5千mを越える仙山トンネルがあり開業時から電化されてたと知りました。 それも交流電化、交直接続試験線に選ばれた理由だった様です、この旅は交流化前です。

【宝珠山立石寺】・・・山形県観光協会HPより
現在の寺社は営業時間があり拝観料徴収するので早朝訪問では入れませんが、当時はそんな事もなく6時半でも中に入り見る事ができました。

山寺駅から山門まで10分足らず、滞在2時間でゆっくり見て羽後千歳へ引き返しました、ここで勘違いに気付きました。

左沢線分岐駅北山形と仙山線分岐駅羽後千歳を取り違えてたのです。 山寺から戻り奥羽本線下り列車に乗り換えたこの線形の駅は羽後千歳でした。 古い記憶とは不思議な物で印象に残った断片的5-10秒がショートムービーとして長く脳に残りますが間が抜け落ちます。


この時も福島駅ホーム、板谷峠スイッチバック通過風景を始め、立石寺岩壁のお堂とか羽後千歳駅秋田/仙台方線形、そしてこれから触れる映像は残ってますが、他はスッポリ抜け落ちてます、人間の脳は印象の薄い記憶は消す様にプログラムされてるとしか思えません。

ありふれたローカル駅を憧れのキハ82系特急『つばさ』が通過する風景で、この旅天童付近と思い時刻表を調べましたが該当駅なし、それに初訪問の東京高校生が下車して寄る訪問先がありません。 1969年東北一人旅時の記憶の様です、記憶に日付タグ付いてません。


1969年の東北旅行は羽越本線経由で酒田から入り、五能線、花輪線、山田線、釜石線に乗車の乗り鉄系、8620/C58探訪旅で、十和田湖や龍泉洞を訪問しました。 青森-仙台間夜汽車ホテルも利用し7-8日の日程、上記記憶場所特定には当時の時刻表が必要です。

羽後千歳から大曲まで鈍行列車に4時間半揺られた様です、となると昼食は新庄の駅弁だったでしょうね。 この日の宿は大曲で間違いなく、訪問先は地理部らしく日本一深い湖田沢湖だったと考えられます。 と、色々推定してると湖を見た淡い記憶が蘇ってきました。

大曲接続生保内線で終点生保内へ、田沢湖見学して大曲18:39着、夕闇迫った頃宿到着だったので多分間違いないでしょう。 ジオコレ旅館の様な木造2階建で1泊2食¥650でした。


◆1966年8月6日
翌朝の大曲駅下りホームはかなり混んでました、通勤列車だった様です。

7-8両編成の蒸機列車で、混雑を避け後尾に乗車しました、数駅目で水田脇に停車し???と思ってると発車後にホームが現れました、ホームは4-5両分だったのでしょう。 8月6日は竿灯祭りの日、朝訪問する間抜けな旅程でした、準備中会場見て駅へUターンです。

秋田9:25発準急で八郎潟へ、時刻表一日市(ひといち)となってますが1965年に八郎潟と改称されてます。 目的は干拓事業進展視察、地理部研究旅行なのでアカデミックでした。

【現在の風の松原】・・・林野庁HPより
その後東能代へ移動し下車、昼食後風の松原を見に行きました、日本一の防風防砂林です。 8年ほど前に再訪しましたが既視感ゼロでした。

東能代から急行『日本海』乗車で弘前へ、途中鷹ノ巣で大ヘマやらかしました。 旧客ですからドアは手動で開きます。 短い停車時間に阿仁合線の様子でも見に行こうとしたのだと思います、10km/h以下になったの見計らってホームへ飛び降りたらすってんころりん、顧問から『無茶すんなよ!怪我されたら困るから』と叱られました。

【急行『日本海』編成】
またまたあやふやな記憶で恐縮ですが、旧客列車乗車時に後方で蒸機音がするのでデッキから見たらD51後補機が付いてました、急行『日本海』矢岳峠越えだったかもしれません。


弘前では弘前城へ行きました、始発DCで青森20:12着、ここで集合時間決めて自由時間にしました。 ねぶた祭やってたかどうか解りません、青函連絡船や青森駅構内の方か祭りよりはるかに興味が高かったのです。

青森から急行『八甲田』の夜汽車ホテルでした、座席確保してから牽引機確認に行くとC61でした、尻内辺りからC60補機が付いたと思いますが、深い眠りの中でした。


◆1966年8月7日
この日の夜行で仙台から東京へ帰るので実質最終日です。 今にして思えば東北本線全線電化前の青森-盛岡間をせめて車内からでも昼間見る旅程を組めなかったかと悔やまれます。

起されたのは北上を過ぎ水沢が近付いた頃だと思います、各駅に乗り換えて平泉へ、ここで眠気が吹き飛ぶ光景に出くわしました。 平泉駅は2ホーム3線駅でその外側にD62約10両が連結停車してたのです、前年10月盛岡電化で廃車された一ノ関機関区在籍機の解体待ち仮留置だったと思います。 見逃せず皆を待たせてスナップ撮りましたがネガはどこへやら。

【毛越寺庭園】・・・毛越寺HPより
さすがに天下の中尊寺、この時代でも営業時間と拝観料があり入れないので、時間潰しに毛越寺庭園を見に行きましたが、とても素晴らしく中尊寺金堂より強く印象に残りました。 後年再訪した時は、もちろん営業時間ありで拝観料を徴収されました(笑)

【厳美渓】・・・ウィキペディアより
中尊寺へお参りした後はバスで厳美渓に行きました、詳細な記憶ありませんが、バスで一ノ関へ出て夕方には仙台に到着してます。 この夜も集合時間を決め自由行動、七夕祭りを長いアーケード街で楽しみました。

青森発急行の選択肢もありましたが、座席確保が容易な始発急行『青葉』で帰京、4泊(車中3泊)5日の何とも慌ただしい初東北旅行でした。


若いから可能な無茶苦茶最小費用日程で、歴史にイフはありませんが、今この時刻表で計画するなら1日早く発ち夜汽車ホテルと安宿交互の5泊6日にしました。 中尊寺を翌日回しで準急『はやちね1号』で釜石へ、山田線/岩泉線で龍泉洞見学、岩泉泊で翌朝盛岡へ出ても、中尊寺経由仙台夕方着可能です。 景勝地厳美渓パスですが、鉄の街、リアス式海岸、鍾乳洞の方が地理部らしく6千円に収まったかと、所詮思考ゲームですが。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録⑦東北電化

今回は東北地方電化の歴史とそれに伴う優等列車の変遷です。

【1964年9月時刻表復刻版】


3-5.電化が進んだ1960年代
東北地方の1960年時点の電化は、輸送力増強の為に早く電化された福島-米沢間と交流電化実験線に選ばれた仙山線北仙台-作並間を別にすれば、南から伸びてきた交流電化の波がようやく福島に到達した処でした。


◆東北本線
1960年代に東北地方電化が一気に進み走行車両が変わりスピードアップが図られました。

電化の波は翌1961年に仙台に到達し、サン・ロク・トウ大改正で上野-仙台間に電車急行が走り始めました。 急行『まつしま』所要時間は5時間15分で、DC特急の4時間43分-56分より短縮できず、性能をフルに発揮しないセーブ運転してたと推定してます。

【483系特急『ひばり』】・・・ウィキペディアより
特急電車化は盛岡電化の1965年で、483系(後485系)『ひばり』が仙台まで4時間を切りDC時代から1時間短縮しました、同時に盛岡行『やまびこ』が運転開始されてます。 未確認ですが上野-仙台間電車急行も所要時間4時間半前後に能力を開放したと思います。 東北本線全線電化完成はヨン・サン・トウ大改正直前の1968年でした。


◆常磐線
本線を名乗らない全国一長い路線常磐線が何故常磐本線でなかったのかは、予算本線/高徳本線/徳島本線に対する土讃線と共に時刻表マニア筆者の永遠の謎です。 余談はさておき常磐線には仙台以北へのバイパスルートの役割があり電化優先度が高かった様です。

常磐線電化は直流電化されてた国電区間取手から先の交流電化が1961年に始まり、この時刻表1964年では平まで、全線電化完成は1967年です。 東北本線/常磐線電化進展と特急増発の動きに合わせ東北地方優等列車は複雑な動きを見せてます、それを追ってみましょう。

【特急『はくつる』編成と牽引機】・・・ウィキペディアより
この時刻表翌月新幹線開業に伴うダイヤ改正で寝台急行『北上』が20系特急『はくつる』に置き換えられ東北本線経由で運転開始してます。 直流・交流電化・非電化区間を走るので、牽引機はEF58/ED71/C61と入れ替わり、盛岡-青森間はC60の前補機が付きました。 特急ならスピードアップが常識ですが13分所要時間が長いのは東北本線経由が理由です。

【特急『はくつる』『ゆうづる』編成と牽引機】・・・ウィキペディアより
翌1965年10月盛岡電化のタイミングで寝台急行『北斗』が20系の特急『ゆうづる』に置き換えられました。 『はくつる』牽引機も盛岡までED75、盛岡-青森非電化区間はC61/C60重連からDD51重連に変更され1時間40分スピードアップされ特急らしくなりました。

【EF80牽引の特急『ゆうづる』】・・・ウィキペディアより
特急『ゆうづる』は平までEF80牽引、その先非電化区間ではC62が牽引する姿が常磐線電化完成まで2年間見る事ができ、折からのSLブームで多くの撮り鉄さんが押し寄せました。 常磐線電化翌年1968年2月の初渡道で『ゆうづる』を利用しました、ナハフ座席車です。

【特急『はつかり』『はくつる』『ゆうづる』編成と牽引機】・・・ウィキペディアより
青森電化完成後のヨン・サン・トウ大改正で『はつかり』を含めた583系電車化が一気に進みました。 余剰になった20系で急行『十和田』を『ゆうづる』として特急化しました。

【583系寝台特急『ゆうづる』】・・・ウィキペディアより
1969年2月の2回目の渡道では583系『ゆうづる』を利用しました、スピードアップで上野発時間が前年より30分ほど遅かったと思います。


◆奥羽本線
奥羽本線は路線距離が長く福島/山形/秋田/青森4県の県庁所在地を結ぶ幹線ですが、東北本線裏街道の側面があり、国鉄の扱いも表街道優先、電化も車両配置も後回しでした。

【奥羽本線昼行急行『鳥海』編成表】
東北本線昼行急行『みちのく』に対応する様に奥羽本線にも秋田までの昼行急行『鳥海』が運転されてました。 1等車2両食堂車併結は同じですが会津若松行『ばんだい』併結で短い編成でした。 ちなみに『鳥海』は列車名を羽越本線急行に譲り『たざわ』と改称した後、国鉄の同一路線同一列車名政策により『第■男鹿』と再度改称されました。

【前後より転載】
夜行急行では東北本線との格差が広がり、寝台急行も食堂車併結もない継子扱いでした。

電化も後回しでヨン・サン・トウ大改正前に板谷峠交流化と合わせ山形まで電化され、特急『やまばと』が運転開始しました。 その後は秋田-青森間が先で、秋田-山形(羽後千歳)含めた全線電化は東北本線より7年遅い1975年、無煙化達成の年までずれ込みました。


◆羽越本線
最後は羽越本線です、『電化が進んだ1960年代』に合致しませんが一応触れておきます。

この時刻表の時代1964年には羽越本線の電化計画さえありませんでした。 電化計画決定が1969年、完成が1972年のスピード工事です。 国鉄が奥羽本線秋田-山形間より日本海縦貫線電化を優先した結果です。

【485系化された特急『白鳥』編成表】・・・ウィキペディアより
羽越本線と同時に白新線も電化され日本海縦貫線電化が完成。特急『白鳥』は485系電車に置き換えられ、大阪-青森所要時間は1時間50分短縮され13時間40分になりました。


3-6.緻密な都市連絡優等列車網
東北地方は南北に長いだけでなく東西も幅広く間には山脈が走ってます。 東北中心都市仙台と近隣県主要都市を結ぶ優等列車が数多く存在しました。 現在は高速バスが果たしてる役割を担ってたのです。 すべてDCでキハ58(or 55)系の運用だったと思います。

仙台-秋田から見て行きます。 3本の優等列車が運転されてまし内2本は小牛田から陸羽東線で新庄に出て秋田に向かう準急『たざわ』が2往復、所要時間は5時間前後です。 列車名下に*マークのある列車は分割併合がある事を意味してます。

【急行『あけぼの』編成表】
急行『あけぼの』はDC6両編成、仙台-秋田間を4時間43分で結ぶ最速列車です。 現在は東北/秋田新幹線で1時間半、1/3以下に短縮されてます。 この列車は北上から横黒線経由で秋田へ向かい終着は青森、仙台-秋田と秋田-青森を結ぶ二つの役割を持ってました。

仙台-山形は山を越えたお隣さんで、準急『仙山』3本と、米沢から米坂線で新潟と結ぶ準急『あさひ』2本の計5本で結ばれてます。

庄内地方は山形県ですが独立した文化圏を形成してます、仙台-酒田間に2往復の優等列車準急『もがみ』『月山』が運転されてました。 お気付きの読者も居ると思いますが、『たざわ1号』と『もがみ』仙台発は7:28、『あさひ2号』と『月山』は仙台発16:27で同じです。 多くの準急列車が分割統合運転をしてました、仙台発7:28は極め付きです。

時刻表によると仙台発7:28準急は秋田行『たざわ1号』(キロ連結3-4両)、酒田行『もがみ』(2両)の他に盛岡行『くりこま1号』(キロ連結で3-4両)、盛行『むろね1号』(2両)の4準急混合編成で仙台出発時は10-12両の堂々たる編成でした。


小牛田で『だざわ1号』と『もがみ』を分割した後、一ノ関で『むろね1号』を分割すると共に盛発列車を併結し、更に花巻では釜石発盛岡行準急『はやちね1号』(キロ併結3-4両)を併結します。 仙台-盛岡の全運転区間で3列車分割、2列車併合し8-10両で盛岡着です。

小牛田で『くりこま1号』から分割された『たざわ1号』『もがみ』は陸羽東線で新庄に到着、ここでも分割併合です。 時刻表によると米沢発準急『もがみ』には酒田行に加え秋田行が併結され山形-秋田連絡列車の性格もあり、編成は多分各2両の4両です。


新庄では奥羽本線からの『もがみ』と陸羽東線からの『たざわ1号』『もがみ』が各2両交換し、酒田行『もがみ』4両と秋田行『たざわ1号』5-6両で目的地へ向かってます。  一体新庄でどの様な分割併合作業が行われたのでしょう?、貨車の入替作業に似てます。

準急『あさひ2号』(2-3両)と準急『月山』(4両)は仙台16:27発仙山線で山形に向かいます。 山形で分割し前方『あさひ2号』は米沢/新潟へ、後方『月山』は山形-羽後千歳間を逆走し新庄へ向かいます、新庄から陸羽西線、余目で酒田行と鶴岡行各2両を分割します。 そして『月山』は新庄で仙台を10分後に出た準急『たざわ2号』に接続しており、午前の『もがみ』と同じく山形-秋田連絡列車機能を果たしてます。  

仙台-新潟間は仙山線・奥羽本線・米坂線ルートの他に東北本線・磐越西線ルートもあります。 仙台-新潟所要時間は1時間近く長く、通しの乗客は少なかったかもしれませんが、仙台-会津若松、福島-新潟連絡列車として準急『あがの』『あいづ』が運転されてます。

田沢湖線開通前の盛岡-秋田連絡は花輪線経由で、準急『よねしろ』が2往復運転されてます。 前出『くりこま』『むろね』『はやちね』は複数本運転ですし、他にも東北域内連絡準急が運転されてました。 分割併合は運転密度を上げず、コストを掛けずに多様な列車を運転する国鉄の苦心の産物で、統括制御可能で全車動力車のDCだからこそできた事です。


ではまた。