Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録①

1.プロローグ
皆さんは国鉄(JR含む)黄金時代はどの時代だったと思いますか?。 車両バラエティだけなら現在と言えますが、貨客輸送量等交通機関主要指標で見れば現在は自動車・航空機と共にその一角を占めてるに過ぎません。 新幹線が開業しヨン・サン・トウダイヤ大改正後の昭和40年代後半からの1970年代を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。

【中山平】
しかし昭和40年代後半は新幹線開業・建設の華々しさと同時に自動車輸送競合で採算が悪化し赤字体質定着の転換点でした、組織としては黄金時代でなく氷河期の入口だったのです。 特に昭和44-46年のマル生運動で労使関係が悪化し、国鉄は疲弊して破綻への坂道をころがり落ちました。 1980年に国鉄再建法が成立して不採算路線廃止へと向かいました。

【独立行政法人国鉄民営化評価レポートより】
国鉄職員数は昭和40-45年をピークに減少に転じ、民営化時には半分以下に減ってます。 民営化30年後には11.7万人(JR貨物含む)と更に半減、経営効率向上は時代の要請で仕方ないですが、駅から職員、各停車内から車掌の姿が消え旅の情緒が失われたのは残念です。


話を戻します、国鉄が戦後復興を終え、車両・動力近代化を進めサン・ロク・トウ大改正で国内交通網整備した昭和36年からマル生運動開始の昭和44年までの10年弱、1960年代が、乗客も職員も将来の夢を持てた国鉄黄金時代ではなかったかと考えてます。

【1964年9月JTB時刻表復刻版】
先日のTMSバックナンバー調達で時刻表復刻版発行と比較的安価に購入可能と知り、筆者定義国鉄黄金時代の時刻表を入手しました。 空想旅に耽ってた頃の懐かしい新幹線開業前夜の時刻表です。 これをネタに雑感シリーズにしたいと思います、まず北海道からです。


2.北道道編
2-1.総論
黄金時代と現在で一番様変わりしたのが北海道なのは間違いありません、人口密度が低い地域での鉄道の役割が大きく変化したからです。 道路網整備と自動車交通発展前は地域産品出荷や新聞雑誌配送等、鉄道が地域の経済文化を高める決定的な役割を果してました。

【1964年9月北海道国鉄路線図】
この号の北海道国鉄路線図です、海岸線の8割程度に国鉄線が走り、内陸部も縦横に細かく結ばれ、路線図は駅名表記に苦労し、全部収める為に地形図をデフォルメしてます。

【2020年2月北海道JR路線図】
昨年購入しコロナ禍で無駄になった時刻表の北海道路線図です。 蜘蛛の巣状だった路線網が札幌と中核都市を結ぶヒトデ状の姿に変貌してます。 土砂災害で不通だった日高本線8割廃止が決定し更に短くなります。 留萌本線も留萌-増毛間廃止後の存続協議から留萌市が抜け、3町村とJR北海道の部分存続協議が続いてますが余命は長くないと思います。


2-2.道東:釧網本線に見る時代の変遷
釧網本線は現在の北海道JR線で札幌始発終着列車が走らない珍しい路線で、道東の中心都市釧路と網走を結ぶ路線だから生き残ったと言えます。

釧網本線は釧路から湿原沿いの内陸部を北上し、標茶・川湯を経由して斜里でオホーツク海側に出ますが、厚床から海岸線を北上して中標津に至る路線と、標茶から中標津経由で根室標津に至る路線からなる標津線がありました。 一方斜里からは根室標津方向へ知る人がほとんど居ない根北線が越川まで伸びており標津線との接続計画があったと思われます。

【北見相生駅のキハ22】・・・ウィキペディアより
釧網本線西側に並行して池田と北見を結ぶ池北線がありDC準急が運転されてました、その間に美幌から北見相生までの相生線が南下してました。 また十勝平野中心の帯広から南北に長い盲腸路線、南は『愛国駅』『幸福駅』で後年有名になった広尾線、北は池北線と平行に十勝三股までの士幌線があり、南北に山脈を越えた谷筋毎に路線がある様相でした。

【タウシュベツ川橋梁】・・・ウィキペディアより
士幌線には鉄道遺産として有名なタウシュベツ川橋梁がありましたが、この時刻表9年前にダム建設で湖底に沈み迂回新線で運転されてました。

現在は札幌と釧路・根室を結ぶ根室本線と札幌・旭川と網走を結ぶ石北本線、そして釧網本線の3線のみ、他の6路線は全て廃止されました。

【白糠線路線図】・・・ウィキペディアより
実は道東廃止路線はもう一つあります、時刻表直後開業の白糠線です。 『この時代の北海道は鉄道建設の時代』で、その事実からも国鉄黄金時代と言えると思います。

【1964年9月釧網本線時刻表】
4本/日のDC準急が運転されてます、釧路-網走間170kmを3時間余で結んでました。 一方普通列車は一部区間運転はDCでしたが、他は列車番号にDのないC58牽引の混合列車でした。 たまたま釧網本線の下が根北線でした、3駅目が終点越川、日にたった4本の運転です。

【釧網本線の混合列車1963年10月】・・・鉄道P誌より
混合列車はおおよそ半数の駅で貨車入替作業をするので所要時間は5時間前後、平均時速34km/hの鈍足、現在は車で3時間でお釣りが来ますが、当時はこれが常識でした。

【2020年2月時刻表より編集】
現在は路線廃止だけでなく時刻表も整理統合、釧網本線と石北本線一緒です。 優等列車は消滅し快速『しれとこ』が3時間をわずかに切り、普通列車所要時間は3時間余で昔の準急並みです。 新型DC高性能化と貨物列車消滅で交換待ち時間削減の結果だと思います。


それにしても国鉄末期からJR化後の駅名変更で由緒ある駅名が軽薄安易な名前に変わるのは淋しいです。 その風潮はこの僻地にも及んでおり『弟子屈』は『摩周』へ、『斜里』は『知床斜里』へ改称されてます。


2-3.道北:消えた路線網
次に現在は宗谷本線だけになった道北を見てみましょう。 北海道開拓史の基礎インフラがまず電気、次に鉄道だったと良く解ります。

路線図右上の興浜南線雄武と興浜北線北見枝幸間が接続計画未完成ですが見事なネットワークでした、ここが開通すれば網走-稚内間優等列車が日に2-3本運転されたと思います。

道北の廃止路線をまとめてみました、8路線で総延長752km、道北だけで東北本線740kmを超える鉄路が消滅してます。 この表作りながら何かが足りない違和感がありました。

【国鉄美幸線年表】・・・ウィキペディアより
国鉄赤字が問題になった頃、収入¥100得る為の経費=営業係数という指標がありました。 営業系数¥6,000、日本一の赤字路線として有名になった美幸線開業はこの時刻表直後、東海道新幹線開業の3日後でした。 開業から17年で廃止決定、20年の短命路線でした。

【1968年10月時刻表北海道路線図より】
ヨン・サン・トウ大改正の時刻表には前記白糠線と合わせ美幸線も路線図に載ってます。 国鉄路線総延長距離ではこの時代がピークでした。


昔の時刻表ネタの雑感と考えスタートしましたが、時代考証の手抜きもできず意外と手間が掛かります、道東・道北だけで紙数が尽きました、この先どうなります事やら(笑)


ではまた。

摂津鉄道 晩秋の蔵本村

摂津鉄道『晩秋の蔵本村』は、昨年『レイアウトモデリング』で始めて読みました。 従来線製作前に読めば良かったと思う部分と、風景重視レイアウトパイオニアの大先輩に失礼かもしれませんが、自分の製作スタンスは間違ってなかったと安心する部分が半々でした。

【前号より転載】
今回『レイアウトモデリング』は発表記事のまま転載してると確認できました。 改めて読み直すと、『道を切り拓く先駆者の苦労』をつくづくと感じました。 誰もやらなかった事を成し遂げる為に、綿密な実地調査と考察、そしてモデル化への取捨選択をされてます。

日本の農村の原風景という言葉がピタリと当て嵌る静かな村の佇まいです、筆者幼時記憶に残る昭和30年前後の北関東の風景に重なります。


★集落の類型化
蔵本村の設計は家屋配置の基本となる集落の類型化から開始してます、

筆者経験でもA散村は広大な北海道を除くと例が少なく、B集村かC街村が多い様で蔵本村は集村、当社北基台は県道沿いの街村に分類できます。


★農家の建物調査
現在はキットを購入して組むだけで設計不要、時代考証不要でその時代のストラクチャを入手できますが、何も先行事例がない製作は情報収集の調査から始める必要がありました。

農家は母屋の他に付属建物が多いのが特徴で、どの様な建物がどの様に配置されてるのかを理解しなければなりません。

TOMIXわらぶき農家のプロトタイプ然とした農家です、写真上の正面(通常南側)と写真下の裏面(北側)、及び様々な物が置かれた側面(西側)は表情が全く違います。

 

わらぶき農家の外回り設計には内部構造理解が欠かせません、典型的な田の字間取りです。 作者は内部基準で外回り製作してますが、キットベースで室内製作する場合は拙レイアウトわらぶき農家や倉元駅舎の様に外回り基準で内部設計製作と順番が逆になります。


GMローカル駅舎は外回りと内部構造が矛盾しない設計でしたが、TOMIXわらぶき農家は中央に屋根固定の太いステーがあり内部工作に苦労しました。 開放的な座敷なのだからもう少し考えてよと言いたい処です。

わらぶき屋根は通常入母屋ですが右の様に寄棟もあり、また棟の形も変化に富んでます。

摂津鉄道の時代設定記載を見た記憶がありませんが、作者の世代と走行車両から昭和20年代後半と推定してます。 筆者が知る昭和30年代の農村は瓦屋根が増えており、確かにこのタイプの農家を良く見掛けました。(母の館林実家隣の農家がこのまんまの建物でした)

付属建物として特徴的な蔵にも調査は及んでます。

そして最後に農家建物配置をいくつかにパターン化されてます。 母屋正面南向きが原則ですが例外もあり、製作した蔵本村でも道路や敷地の必然性で母屋東向き農家を混ぜ、実感を盛り上げる要素に使われてます。 現在の農家市販キットもこの配置に準じてる様です。


★地形の重要さ
『晩秋の蔵本村』はストラクチャ個々の品質と実地調査に基づく配置の妙もありますが、もし完全に平坦なベースに製作されたとしたらその魅力は半減したと筆者は考えてます。

御覧の様に右辺は水田で線路に接するのでほぼ水平ですが、左奥コーナーが一番高く、前辺に近付くに従って傾斜が緩くなる傾斜地になってます。 実際に埋め立て地(筆者は落ち着かず嫌いです)以外完全な平坦地はまず存在せず、自然らしさが欠落してしまいます。

この地形造形をする為にこの様な台枠を製作してます。 水田と住宅敷地以外水平な場所はないと言って良く、地形の重要性を優先しない限りこんな手間の掛かる事はしません。

【拙レイアウトより】
緩やかな傾斜が建物敷地や田畑に高低差を生み、トータルとして自然らしさを生みます。 当社コンセプトに最初に自然があり、人が住み付き家屋や田畑を作り、最後に鉄道が敷設されたと書いてますが、摂津鉄道も明言してませんが同じ考え方で製作されたと思います。


★小物で生活感を演出
建物製作は調査結果を基に適度な簡略化で製作されてます。 時代環境と素材環境が異なるので割愛しますが、小物については大いに参考になるので、適用事例を紹介します。

晩秋農村の風物誌干柿は当社もやりたかったのですが、スケール0.6mmほどのサイズで従来線は断念しました、延伸線で挑戦したいです。

物干に洗濯物があります、1/80だからできる芸当かもしれません。 写真では解り難いですが庭先にモミが干してあります。 農家屋根は切妻・寄棟・入母屋と形でも、わらぶき・瓦葺きと材質も変化に富んでます、この部分だけ見ると変化させ過ぎかもしれませんが。

代々村長を務める旧家には庭がしつらえてあります、旧家にふさわしい重厚な屋根です。

庭の製作図で砕石場に出てきたテングサ使うとこんな外観の植物製作可能と解りました。

水田の稲株は試行錯誤の末ミシンで縫って裏側を接着固定し表面をカミソリ切断、起毛固着で製作されてます。 このセクションで1万株、全体で10万株、その回数カミソリで切ったと思うと気が遠くなります。 モミ殻焼きからは発煙装置で煙がたな引いてます。

 

発煙装置は延伸線でぜひやりたい事で、壊れたドライヤーヒーターニクロム線や碍子管など材料は揃えてあります。 この裏面写真見ると発煙装置以外にも配線らしき物があり、建物照明配線にも思えますが本文記載ありません、夜景楽しめたら言う事ないのですが。


★まとめ
摂津鉄道蔵本村はリアルなレイアウト風景製作の秀作で、風景重視レイアウト製作者にとって、半世紀経てなお目標となる優れた先行事例です。

記事に登場するのは8620牽引のダブルルーフ客車ですが、C58/C57牽引のオハ35/オハ61や10系気動車も良く似合う風景だと思います。

田舎道だからウネウネさせてるのではありません。 最初は獣道の様な踏み跡、家が建ち出入りの通路が設けられ、耕作で行き来し、やがて大八車や馬車・耕運機が通りと、長い歴史の中で決まってきた道筋で、地形や建物と整合したウネウネだからこそ自然なのです。


この記事読んで製作意欲が湧いてきました。 年初の計に延伸線北基台製作を掲げながら、温かくなったのに何も着手してません(滝汗)


ではまた。

半世紀前のTMS 1967年1月号②

前回の続きです。

【前号より転載】


★名鉄ディーゼルカー8000系製作記
前回の拙ブログTMS紹介1967年6月号の長野電鉄OSカー製作者K氏の作品です。 実際はコチラが先の製作、5ヶ月後にOSカー発表です。

キハ82系に似た外観と国鉄DC急行色塗装のキハ8000系は、名鉄が国鉄高山本線乗入れ急行『たかやま』(最初は準急)用に開発した車両です。

【特急『北アルプス』運用のキハ8000系】・・・ウィキペディアより
1970年黒部立山アルペンルート開通に伴い『北アルプス』と改称し富山地鉄立山駅まで延長運転、1976年には特急に格上げされ、特急車両に倣い前面矢羽根塗装が追加されました。

作例は『たかやま』時代、運用開始から1年強のモデル化ですから、新型車と言えます。

0.3t真鍮板にケガいて切って、曲げて半田盛ってヤスって仕上げる、と製作法に記載されてますが、この3平面組合せ前面ガラス窓枠など、とても素人の手には負えません。

【某通販サイトより】
もしやと思い『名鉄キハ8000』で検索したらやはりありました。 手当たり次第何でも模型化がNの特徴だと解ります。


★充電式電池で常点灯
現在はPWM電源常点灯が常識で、誰でも簡単に実現できますが、停車中真っ暗になる車両を何とか点灯させたい要望は昔からありました。 その一つの解法が紹介されてます。

カドニ電池とはニッケルカドニウム電池、通称ニッカド電池で、重たい鉛蓄電池から軽量充電式電池のホープとして登場しました。 筆者が所有してたウォークマン音楽プレーヤー電源もコレでした。 このニッカド電池を16番車両常点灯に利用するアイディアです。

それ以前は高周波点灯や交流点灯が提案されてましたが、大規模電源改造と白熱球短寿命化の欠点があり、電池式は超コスト高でした。 充電式バッテリーで走行中充電、停車中放電で常点灯する自己完結型で従来欠点を解消するのがこのアイディアの特長です。

3V白熱球使用時の回路構成図が載ってます。 ダイオード4本直列順電圧2.8Vはニッカド電池2個直列電圧より若干高く、走行中は充電抵抗Rで充電すると共に白熱球を点灯します。 停車して走行電圧0V時はニッカド電池約2.7Vで点灯します。

この回路をD51テンダー内に押し込んでます。 課題は白熱球1個当たり40mAの消費電流と編成車両間のジャンパー線接続で、荷物車に大容量電池搭載し編成全体常点灯の計画が記載されてます。 LEDとPWM電源普及で常点灯が当り前と思える現在の私達は幸せです。


★ナローの魅力:祖師谷軽便鉄道から
TMS誌上でナローレイアウト祖師谷軽便鉄道を発表した作者の連載記事でこの号が3回目、ナローの楽しさを発信してます。

ところでNゲージで鉄道模型始めた方は『ナローは線路幅が狭い鉄道模型』はご存じでも、HOn2 1/2の意味を正しく理解してる方は非常に少ないと思います。 本題に入る前にポイントだけ説明します、筆者が何故KATOの1/80模型HO詐称を問題にしてるかも解ります。

つまりHOn2 1/2とはNレールを走る1/87サイズの軽便鉄道模型です。

【沼尻鉄道ホハ12】
線路幅が狭くなると必然的に走る車両の幅も狭くなり、高さも低く、重量も軽くなります。 でも乗客のサイズと重量は変わらないのでナロー独特の車両外観になります。

【沼尻鉄道ホハ7】
特に妻面縦横比が特徴的で、360cc時代の軽ワゴンの様に馬面になります。 軽量化の為でしょうかオープンデッキ客車が多いのもナローの特徴で寒い地域路線なのにと思います。

【祖師谷軽便鉄道の2軸客車】
作者はN用5.5φ車輪を使い2軸客車を製作してます、乗車定員20名未満だと思います。

拙ブログでも1960年初頭全国各地に存在した軽便鉄道を紹介してます。 1970年までの10年間でそのほとんどが廃止されました。 1964年東京オリンピックへ向け交通網整備が進み、東名高速開通は先進国仲間入りを果たしたい国家の威信を賭けた大事業でした。

【1964年10月遠州鉄道最後の日】
その一方で平均速度20km/hに届くかどうかの軽便鉄道は、古臭く非効率で捨て去るべき物として蒸機に先立ち廃止され、蒸機の様なブームも起きずひっそりと姿を消しました。

【運材列車イラスト】
ナローは機関車もユニークですが、連載3回目なので紹介済みの様です。 祖師谷軽便鉄道は鉱石運搬鉄道の想定ですが、作者は運材列車の夢もお持ちでイラストを描かれてます。

機関車や客車の外観特徴に比べれば貨車の外観は普通です、機関士や乗客の様な基準寸法がないので、縦横を小さくしたスタイルになってます。

有蓋車も背の低いタイプが多いですが、これは車掌が乗るワフなので馬面です。 筆者はナローファンではありませんが興味はあります。 筆者が一人旅を始めた昭和40年は1965年、有名な草軽は廃止されてましたが半数近くの軽便鉄道には間に合ってました。

【風間克美さん写真集ポスターより】
しかし国鉄線車窓からホーム片隅や跨線橋向こうに見えるマッチ箱の様な車両を見てもこれが時刻表に載ってる▲▲鉄道だなでスルーしてました。 それを懐かしく感じるのは若い頃好きでなかった流行歌を30年後に聞くと、その頃の思い出に繋がるのと同じ心情です。


★ひかりに続く車両たち
この号で初めて知ったシリーズがありました。

【TMS1963年12月号より】
長期連載の『陸蒸気からこだままで』は新幹線開業10ヶ月前の1963年末に完結しました。 その後加筆され『陸蒸気からひかりまで』と改題され特集シリーズになったのはご承知の通りです。 その続編とも言うべき『ひかりに続く車両たち』の第1回が掲載されてます。

①近代化された除雪車DD53とDD20
1964年から1965年、正に新幹線開業直後に試作された除雪編成、後年の量産型がどうなったかは寡聞にして知りません。
②小さな体で大きな力ED75
ED71の改良機で出力1900kW、旧式ED電機代表格ED16の900kWの倍以上の出力です。
③九州特急が生んだ珍車サヤ420
151系特急博多乗入れの際、九州交流区間は電機牽引した時に電源車として改造し使われた車両、交直両用481系登場で元のモハ420に再改造された一時のあだ花的車両です。


最下段はキユ25と冷房付きキロ28です、5ケ月後の1967年6月号にこの連載はないので。数回のシリーズで終わった様です、新幹線開業1年半ではネタ切れしても仕方ありません。


ではまた。