Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

半世紀前の鉄道P誌1965年9月号①

今回は鉄道P誌1965年9月号の紹介です。 連載中『国鉄黄金時代回想録』ネタ本時刻表の1年後、前回東京五輪・新幹線開業1年弱の、国鉄が大きく変化し発展を遂げた時代です。

【鉄道P誌1965年9月号巻頭グラビア】
中央東線松本電化完成祝賀列車です、記載ありませんが撮影は1965年7月1日、撮影地は最後に電化完成した辰野-塩尻間と推定されます。


◆松本電化
その松本電化からです、特急『あずさ』運転開始は3ヶ月後の事です。

【1965年6月30日新宿駅】・・・DC最終日の第2アルプス
新宿駅3/4番線ホーム渋谷方から2番線で発車時間8:00を待つ急行『第2アルプス』DC最終日の姿です。 昼間も照明が灯る現在と異なり、当時の新宿駅には空がありました。

【1965年6月30日上諏訪駅】・・・DC最終日の第3アルプス
同日上諏訪駅1番線進入の上り急行『第3アルプス』です。 筆者が諏訪転居した1983年にはこの位置に2基目の跨線橋が設置され、奥に見える貨物側線は撤去されてました。

【1965年7月1日上諏訪駅】・・・EC初日の第3アルプス
翌日同アングルの165系急行『第3アルプス』です。 撮影場所2/3番線ホーム左手に前日まで本線本務機を務めたD51約20両と入替機C12在籍上諏訪機関区転車台と扇形庫がありましたが、役目を終え撤去されました。


◆各地で進む優等列車電車化
電化と優等列車電車化は全国同時進行でした。

【1965年6月29日仙台-長町間】・・・483系10連試運転列車
翌10月ダイヤ改正で東北初の電車特急『ひばり』『やまびこ』として運用開始される483系試運転の様子です。

【1965年6月27日仙台-長町間】・・・455系8連試運転列車
同じく急行用455系の試運転列車です。

【1965年7月3日門司駅】・・・475系九州入り
熊本電化に伴う1965年10月ダイヤ改正で九州でも電車急行の乗入れ準備が進んでます。

【1965年7月11日南福岡区】・・・475系に続き481系も九州入り
関西方面から九州乗入れ特急電車化準備も同時進行です。


◆各地の話題
鉄道P誌は鉄道全般対象なので話題豊富、北からです。

【1965年6月23日仙台機関区】
長町機関区転車台修理の為、久し振りに仙台に姿を見せたD62、同年10月盛岡電化で廃車が進み、19号機は翌1966年夏平泉駅側線で見た解体待ちD62の1両だったかもしれません。

【1965年6月27日長町機関区】
D51197とD51246が長野工場から回送され、長野式集煙装置付D51東北初見参になりました。 続いて首都圏の話題です。

【1965年7月3日東京運転所】
翌10月ダイヤ改正増発と夏の臨時列車に対応する0系新幹線第3次増備車120両が東京運転所に勢揃いしました。

【1965年6月20日品川客車区】
翌10月ダイヤ改正増発のブルトレ特急用新製20系客車も準備完了です。

【1965年7月13日昭島】
来る者あれば去る者あり、一時代を築いた東海道の花型電機、前年末廃車された独特な顔のEF55が機関車墓地昭島へ到着、解体を待ちます。 続いては北陸/中京の話題です。

【1965年7月11日信越本線米山駅】
慣熟運転中の東新潟区所属DD51と富山区所属DF50の珍しい異種DL重連、牽引列車は大阪行522レです。 幹線の信越本線でもスプリングポイントが使用されてたと解ります。

【1965年7月14日富山機関区蒸機庫】
同年10月1日の糸魚川電化を控え、富山機関区蒸機庫はC57/D51 30両と共に、EF70 24両にバトンを渡し姿を消します。

【1965年6月28日金沢運転所】
翌10月ダイヤ改正で大阪-上野間『白鳥』(信越白鳥)が金沢-上野間『はくたか』として分離独立する準備として、金沢配属予定キハ82系22両の第1陣が到着しました。

【1965年7月20日小田淵-国府間】
先日紹介したTMSに製作記が掲載された名鉄キハ8000系です、高山本線乗入れ準急『たかやま』用に開発され7月15日から開始された試運転の様子です。 この月の関西/四国国鉄に大きな動きはなく山口へ飛びます。 

【1965年7月4日美祢線南大嶺-四郎ヶ原間】
10系気動車には液体式気動車から改造された湘南顔のキハユニが数種存在し、亜幹線やローカル線で運用されてました。 これは美祢線で活躍するキハユニ15です。

【1965年7月4日小倉駅】
半年先行したキハ35の九州入りに続き両運転台のキハ30も九州入りし、筑豊-北九州間の通勤輸送に当る事になりました。 通勤型キハ35系はどうしても好きになれませんでした。

【1965年7月7日肥薩線第1球磨川橋梁】
自然災害は繰り返される実例です。 1965年梅雨末期豪雨による熊本大水害で不通になった肥薩線を5日振りに人吉まで部分運転される準急『第1えびの』です、球磨川は橋脚の8割まで増水してます。 『第1えびの』は肥薩線経由博多-宮崎間、キハ55系5連の様です。


回想録にも書きましたが、1960年代は古い物と新しい物が入り混じり、それらが時々刻々と変化し続けてゆく激動の時代でした。 


ではまた。

Hyper-G湖南仕様改修⑩モグラは何処だ?

前回電流容量確認実験で抵抗負荷を10.8Ωに下げた処、電源電圧が低下し何処かで損失発生してる様子なので実験を中断しました。

【トンネルを出て鉄橋へ】
何が起きてるか確認しなくてはなりません、出力波形(出力トランジスタコレクタ)と同時に電源電圧波形(同エミッタ)を計測しました。

電源電圧が10.1Vまで低下してます、PWMオン時は電流が増えるので8.8Vまで低下し出力は更に0.3V低い8.5V、損失は3種類です。
➊電源電圧低下:12V⇒10.1V
➋PWMオン時電源電圧低下:10.1V⇒8.8V
➌出力トランジスタ損失:8.8V⇒8.5V
全て確認してきた訳ではありませんが軽負荷時の立ち上がりヒゲを含めてHyper-Gオリジナル設計時にはなかった現象で、湖南電源改修の安全性保証回路と常点灯性能改善BAT43奥の手回路の追加が原因と思われます。

【出力トランジスタユニット交換】
BAT43奥の手回路追加要因はICソケット化した出力トランジスタユニットを元に戻すだけで簡単に確認できます。 差し替えて実験です。

結果は上記損失➊➋は全く変化せず➌のみ0.3V⇒0.1Vに減少しました。

この損失増加0.2Vは、BAT43追加で出力トランジスタVce sat増加が原因で、常点灯性能改善のトレードオフで織り込み済みです。 理論設計の裏付けが取れた訳で奥の手回路は損失増加主因でなくセーフ、他に考え得る常点灯性能改善策がなかったのでホッとしました。

出力トランジスタユニットを元に戻し抵抗負荷を19.5Ωに変更しました。 10.1Vに低下してた電源電圧は11.7Vに上昇、PWMオン時低下も負荷電流減少で1.3Vから0.8になりました。 ここまでに解った事を整理します。

PWMオフ時は負荷電流ゼロ、抵抗負荷10.8Ω/19.5Ωの電源電圧同じハズなのに何故か違う、不思議です。 電源電圧を供給する安全性保証回路の負荷変動と損失の関係を調べる必要があります。 戦線拡大する前に常点灯の軽負荷で発生する立ち上がりヒゲを調査します。

負荷抵抗を470Ωに変更して計測しました、 電源電圧PWMオンオフ時は19.5Ωより各0.1V上昇し、出力電圧は1.0Vも上昇しました、そして盛大なヒゲ、画面レンジオーバーです。

出力波形縦軸を2V/目盛から5V/目盛に変更し、更に横軸を10倍に拡大しました。 ヒゲのピークは18V、そして電源にもヒゲ位置にノイズです、コレは関係ありそうです。 データ省略しますが、ユニット交換してBAT43奥の手回路はヒゲと無関係と確認しました。

負荷抵抗を19.5Ωに戻して縦軸双方2V/目盛、横軸10倍で波形観察しました。 ヒゲは出てませんが立ち上がり部に波形乱れと電源ノイズがあり、軽負荷時ヒゲが重い負荷で鈍って姿を変えただけで本質は同じです。


電源ノイズ(原因)があるからヒゲ(結果)が出る、ヒゲ(原因)があるから電源にノイズ(結果)が出る、原因/結果がどちらか解りませんが見つけた以上要対策です、電源ラインに10MHzノイズとは驚きでした。

Hyper-G電源-GND間にノイズ除去用100μFアルミ電解コンデンサが入れてあり、数十Hzから数百KHzのノイズを除去します。 アルミ電解コンデンサは小型で大容量実現可能ですが周波数特性が悪くMHz帯ではコンデンサの役割を果たしません。 周波数特性が良い誘電体ほど大容量実現困難で、ノイズ除去パスコンには上記3種が使い分けられてます。

パスコン用チタバリ/チタコン3種を常備してます、ここでは0.1μFを使用しますが、チタコン1000pF(102K)用法を、レイアウト制御に使用されてるAuduinoを例に解説します。

Arduinoに限らず最近の半導体プロセスで生産されたデバイスは高速動作で、その応答速度は150MHzに達します。 基準クロックは4/16MHzでもクロックを2のn乗分の1周波数にする分周器が多数あり。2MHz・1MHz・500KHz・・・976.6Hz・488.2Hzが存在します。


アナログ制御用PWM出力が中途半端な周波数なのはクロック2のn乗分の1でしか動作できないからです。 Arduinoシステム全体から150MHzまで高周波ノイズが輻射され、ブレッドボードで配線引き回すと、配線が高感度ノイズ受信アンテナになり確実に誤動作します。

ノイズ誤動作防止法としてプルダウン抵抗が公知技術ですが、数MΩの端子-GND間抵抗値を1/100にしてノイズアンテナ感度を下げ、『確実誤動作』を『何とか動作』に改善してるだけで、配線を束ねて結束させたりすれば誤動作が発生する程度の初歩対策です。

プルダウン抵抗に替えてパスコン使えば端子-GND間の対ノイズ抵抗値は数Ω以下、プルダウン抵抗の1/10000になり絶対に誤動作しません。 ただし100MHzを越える周波数では配線や基板パターンもコイルの役割を果たすので、パスコン設置場所は入力端子近くです。

脱線しました、話を戻します。 ノイズ周波数は10MHzですが両CHそれぞれの出力トランジスタエミッタとGND間に0.1μFを追加しました。 ユニット外しての作業です。

電源パスコン2個追加後出力トランジスタユニット挿して波形観察、電源のヒゲはかなり小さくなりましたが出力のヒゲはピーク18Vが17Vになっただけでほとんど変化なしです。 つまり出力波形のヒゲが原因で電源ノイズは結果と解りました、小さな1歩前進です。

今回の検討で高負荷時損失増加も出力波形のヒゲも安全性保証回路が原因とモグラの正体が解りました。 苦労して開発成功と思ったのにガッカリですが、問題解決に向けてブラッシュアップするしかありません。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録⑭南紀正月旅行

今回は東海道本線で行った関西方面の旅の話をします。

【1964年9月時刻表復刻版】


6-6.関西への旅
新幹線開業前の関西は遠い場所で、帰省先が西国でない限り始めて行ったのは修学旅行、もう少し下の世代なら大阪万博だったという関東生まれの方も多いのではないでしょうか?
◆1964年1月南紀正月旅行
始めての『逃げ正月』家族旅行先が南紀でした、弟が3歳半になり家族旅行可能になった事も、この年から始まった理由だったと思います。

父はこの旅行に1等の南紀均一周遊券を用意した様です。 大人3人、子供1人、幼児1人の5人家族で¥24,500、貨幣価値換算で18万円です。

東京発は急行『那智』終点新宮まで乗車です。 1等座席車も連結されてますが寝台車を使いました、妹と弟は両親と一緒、筆者は一人専用です。

両親は子供と一緒で広い下段は解りますが、筆者も外が良く見える下段でした。 均一周遊券と合わせ貨幣価値換算で22万円、現在航空機で家族帰省すると当り前の金額ですが、とても贅沢な豪華旅行に感じました。

横浜に夜行優等列車見に行ったのが1961年末なので、2年少々で夢が叶った事のなります、しかも急行1等寝台車、嬉しくて嬉しくて眠れる訳がなく夜の車窓風景を楽しみました。

名古屋まで眠気に耐え起きてました。 名古屋で進行方向が逆転し関西本線へ、蒸機牽引に替わったのが音で解りました。 汽笛に聞き惚れてる内にいつしか眠りに落ちました。

あの時の牽引機は?と調査しました。 この区間担当する名古屋/亀山両機関区配属表見ると、急行牽引機が務まるのはC57しかなく、縁が薄いと思ってたら最初の遠距離旅行でお世話になってたと解りました。

目が覚めたのは白々明け、山の中を低速走行中で進行方向が再逆転してました。 走行音から牽引機はC57から紀勢本線山間区間担当の亀山機関区DF50に交替してた様です。 少しして紀伊長島に停車しました、もう少しで海が見えるな~んてまた眠りに落ちました。。

【紀勢本線のDF50】・・・ウィキペディアより
紀勢本線山間区間では架線が張られ電化完成直前までDF50が活躍してた様です。

尾鷲も熊野停車も記憶になく、起されたのは終着新宮の直前でした。

【瀞峡観光プロペラ船】・・・運航会社HPより
新宮から瀞峡観光に行きました、乗船桟橋は新宮市内熊野川河口近くです。 浅い川を遡上するのは通常の船では無理で、20人乗屋形船船尾で2mのプロペラをエンジンで回し風力で進む川舟です。 その轟音たるや凄まじい物で、眠いのに寝られないほどでした。

こちらが運航時刻表、遡上3時間、川下りは2時間10分、峡谷美楽しめるのは最後の15分だけです。 新宮帰着午後2時半、この日は大晦日で紀伊勝浦へ移動し宿泊しました。

【瀞峡のウォータージェット船】・・・ウィキペディアより
後年道路整備が進み河口から遡上する必要なくなりましたし、酷い騒音で非効率なプロペラ船はウォータージェット船に置き換えられました。 7-8年前再訪の際は更に上流瀞峡入口から和船を使い、車降りて見所を堪能し1時間でお釣りが来て秘境感が喪失してました。

【那智の滝】・・・ウィキペディアより
那智勝浦温泉に連泊し元旦は那智大社へ初詣、那智の滝も見ました。 現在は元旦営業が珍しくなくコンビニもありますが、当時は正月3日間ほとんどの店が休み、交通機関と初詣客が来る寺社除けば観光施設閉館で食堂も休み、動くに動けなかったのかもしれません。

1月2日は紀伊勝浦から串本に寄って白浜までの旅程でした。 1等均一周遊券利用なので急行/準急1等自由席乗り放題です。 白浜到着時間から準急『はやたま』キハ55系と『南紀2号』旧客列車利用だったと思います。 当時の駅名は『白浜』でなく『白浜口』でした。

【橋杭岩】・・・ウィキペディアより
串本では潮岬灯台から海を眺め、橋杭岩を見に行きました。

【白浜の千畳敷】・・・ウィキペディアより
白浜へ着いてから千畳敷を見に行き、場所不明ですが白浜入り江を見下ろす展望台から、大阪から飛んできた水上機着水を眺めた記憶があります。

【準急『きのくに』】・・・ウィキペディアより
翌1月3日は準急『第1きのくに』で和歌山移動です。 当時の列車命名法は第▲は特急/急行、準急は▲号で、準急『南紀』は1号/2号なのに何故か準急『きのくに』は第1/第2です。

時刻表確認すると『第1きのくに』は全車指定、指定券買い足したのかもしれません。

【和歌の浦】・・・ウィキペディアより
和歌山では和歌の浦に行きました、和歌山城へも行ったかもしれません。 そしてこの日の宿泊地記憶がスッポリ抜け落ちてます、和歌山-大阪のどこかなのは間違いありません。 帰京する1月4日は大阪城と通天閣へ行ってから大阪駅一番外側ホームに並びました。

乗車したのは急行『よど』1等車自由席、本当は急行1等車より特急2等車に乗りたかったのですが我儘を言えませんでした、特急券/指定券買い足し必要なので当然の選択です。 『よど』は浜松で『第2つばめ』待避、下車駅横浜には25分遅い21:02着です。


一人旅が許される前のこの正月旅行は筆者旅行史の中でエポックメーキングで、見知らぬ土地を旅する楽しさを心に植え付けた出来事でした。


ではまた。