Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

Hyper-G湖南仕様改修⑧ボチボチ その2

前回モールド用黒い瞬着流し過ぎのミスはありましたが、何とか回路改修を完了しました、現在の視力で良くやったと自分を褒めてます。

【生野駅夕景】
1ヶ月半もやらなきゃと思いながら着手できなかったのは、回路改修できるかどうかの心配ともう一つ、改修後の確認作業で予測される困難でドツボに嵌り立ち往生する事、つまり恐ろしくてパンドラの箱のフタ空けられなかったのです。 でももうやるしかないですね。


◆安全性保証回路動作確認試験-1
実験計画法に基づき、ステップ毎に問題箇所を絞り込んでゆく確認試験計画を立てました、さてどんな蛇が飛び出すか?、ハラハラドキドキです。

実験装置を組みました、電源出力にダミー負荷19.5Ωを繋ぎ両端電圧を計測するテスターを接続しました。 また出力ショート試験用ジャンパー線を準備してます、現在常点灯ボリュームMinなので出力電圧ゼロです。

最初の確認試験はノッチオフ/ブレーキMax停車状態で常点灯ボリュームMaxでの出力ショート試験です。 約2V、17%デューティー比でポリスイッチがトリップして回路オフしPL赤点灯する確認です。 非動作はあってはならない事、一番外堀を埋める確認試験です。

常点灯ボリュームをMax調整すると出力電圧は1.85Vでした、デューティー比16%です。 なお常点灯調整時の速度計表示は常にゼロです。

ジャンパー線で出力ショートすると出力電圧0V、速度計表示が消えPLが赤点灯します。 ポリスイッチ動作確認できましたが、まだラッチ回路の動作/非動作は解りません。

2番目の試験は試験➊の出力ショートをオープンします、回路オフならラッチ回路動作で、電源オフオンリセットまで状態保持で正常、万一回路オンに戻ればポリスイッチが復帰しただけで筆者には最悪シナリオ、苦労して開発した安全性保証回路は役立たずだからです。

出力ショートジャンパー線外しても状態変らず正常、ラッチ回路動作が確認できました。 試験➋まではクリアできると信じてましたが、ここから先はやってみないと解りません。

安全性保証回路の必要機能は、
(1)ショート時回路を保護し信頼性を維持する事。
(2)使用者へショート発生を報せる事。
以上2点ですので、例え電源出力が0.1Vでも確実に動作する必要があります。 でないとじっくりこんがり焼き上げる事になり対策必須、一番可能性高く筆者が恐れてる結果です。

不安定発振領域で起動ドリフトもあるので調整難しいですが、微小出力電圧が出る位置に常点灯ボリュームを調整しました、シャッター時の計測値10mV、0.01Vです。 ポリスイッチ追加前回路の返送後試験ではラッチ回路が動作しませんでした。(検収試験と同結果)

いやーっ、良かった!、予想は高確率で非動作でしたが、回路オフ/PL赤点灯しました。 どうやらポリスイッチ応答速度が速く狭いパルスでも十分ショート検出できてる様です。 『あーやっぱり非動作、どうしたら良いのだろう』とドツボに嵌るのを回避てきました。


安全性保証回路開発時にポリスイッチだけでは出力電圧0.2-0.3Vで動作せず金属皮膜抵抗に変更した経緯があるので、何だか狐に化かされた様な気分です。 安全性保証回路必要機能をクリアしたので気楽になりました。

最後の試験は試験➌の出力ショートをオープンします、回路オフならラッチ回路動作で、100点満点の正常動作、回路オンに戻った場合は製品なら要解析/要対策ですが、基本機能満たし実害少ないので、『ゴメン』で『がおう☆』さんに了解して貰う腹積もりでした。

試験➌で予感ありましたが結果は100点満点、原因解析/対策プレッシャーから解放され、本当にホッとしました。 ポリスイッチと金属皮膜抵抗の合わせ技1本?、事実は小説より奇なりですが反対側のドブ、負荷増加時動作点、1.2A容量確保できてるか気になります。


◆安全性保証回路動作確認試験-2
ショート時に確実に回路オフし電源守れる事は確認できましたが、湖南電源容量1.2Aを満足してる事も確認しないと片手落ちになります。 ラッチ回路に金属皮膜抵抗とポリスイッチ併用で、ショート時OKでも1.0Aで回路オフではNGです、確認する必要がありそうです。

実験には電流計が必要?、いやいや電流計あっても簡単ではありません。 部品箱の隅に眠ってるハズの部品思い出しました。電源設計のダミー負荷に調達した47Ω/10Wセメント抵抗数本に加え使うかもとポチッした10Ω/10Wセメント抵抗です、出番なく眠ってました。

10Ωをダミー負荷19.5Ωに並列接続すると合成抵抗は6.8Ωになりました。 この負荷で出力電圧6.8Vなら1.0A、8.16Vなら1.2Aです。 電圧=電流x抵抗のオームの法則です。

さあ実験開始と電源スイッチオンし、まずは常点灯初期設定とボリューム回すと、出力が出始める目盛り3.5付近でいきなり保護回路動作しました。 『何でだ~、アッ』でした。

【過去記事より転載】
ダミー負荷19.5Ω、出力電圧0.5VのPWM波形です。 Hレベル11.8Vなので6.8Ω負荷時の瞬時電流は1.74Aになり保護回路動作してたのです。 この確認実験法ミスは図らずも狭いパルスで安全性保証回路が確実に動作する事を証明する結果になりました。


と同時に正しい実験法を示唆してます、負荷19.5Ωを徐々に低くし保護回路動作時の抵抗値とHレベル電圧から安全性保証回路動作電流を計算できます。 負荷に大パワー食わす事なく常点灯確認可能で、となると先にトランジスタ交換と奥の手回路追加した最終仕様で実験した方が良いの結論になりました。 行きつ戻りつのボチボチなのでここまでです。


ではまた。

Hyper-G湖南仕様改修⑦ボチボチと(汗)

『がおう☆』さんの『気が向いた時で良いですよ』の言葉に甘え、TMS紹介や回想録で1ヶ月半湖南電源改修をサボってました。 当方から委託したKATOキハ58系やC12の入線整備が進む中で放置もできず、両目注射手術が終わり、遅れ馳せながら着手しました。

恥を晒す様ですが、ノッチ加速特性改修で図矢印リード線を2列上横基板穴に遠近感狂いで挿入できず嫁さんに手伝って貰う始末、ブログ記事変換ミスも拡大鏡確認で修正が必要で、車の運転を極力控えてました。


140万アクセス到達

【7月2日18:00拙ブログアクセスカウンタ】
7月2日皆様のご愛読のお陰で140万アクセスに到達しました、ありがとうございました。

安定ペースから直近100Kの低下は、レイアウト製作が進展せず雑感でお茶を濁してたからの様で、読者は正直ですね。 昨年8月から継続した月間3万越えは4月に途絶えました。

今年年末には当面目標の更新1,000回、アクセス累計155万前後に達するでしょう、 拙ブログは過去記事アクセスが多く遺産で食ってる状態です。 次の目標は?、200万アクセス?、あまり意味があるとは思えずモチベーション維持に苦労しそうです。 更に更新頻度下げる手もありますが、一度緩めると元には戻らない物、まっその時また考えましょう。


◆ノッチ加速特性の改修
サブチャンネル実施の改修をメインチャンネルに適用し同特性にします。

手術後視力検査で0.7まで改善しこれ以上良くなる事は多分ないので、今やらないとできなくなると考えメインチャンネルの裏ブタを空けました。

【過去記事より転載】
間が空いたので確認しながらです、R67 33kΩに43kΩ追加して76kΩとし、C51充電時定数を1.7-2.2倍にして加速を緩やかにする改修です。

一体化したメイン基板と高機能基板を4本のナットを外して裏ブタから浮かせます。 数十本の配線に無理な力が加わらない様に細心の注意です。 どこか1本切れたら箇所特定に非常に手間が掛かるだけでなく、補修する自信が全く持てないからです。

33kΩと10kΩのリード線を撚って半田付け、リードカットしました。

自分の眼を信じてないのでテスターで確認、42.2kΩでOKです。

43kΩを33kΩとロータリースイッチ配線ランドと隣接ランドに挿入しました、1工程毎写真撮影確認です、抵抗リードは意図的に浮かせてます。

裏返して抵抗リード線出てる場所を半田付け、余分なリードカット後、表面ロータリースイッチ配線を根元から切断し、半田上げして抵抗リード線に半田付けし回路改修完了です。

メイン基板と高機能基板外しての作業完了なので裏フタに再固定しました、黄丸が改修部で見た目悪いですが、確実接続と最小リスク両立でこの方法にしました。 赤丸出力トランジスタも交換と追加工必要ですが、ICソケットユニット化したので独立で作業できます。

【LOCOモードノッチ2のON後39秒後】
作業確認も含め、両チャンネルノッチ1-5速度計表示を13秒毎に計測しました。 両チャンネル特性は誤差1-2km/hでOKでした。

計測結果を表にまとめました、LOCOモードノッチ1は13秒後18km/hですからかなりゆっくりした加速です。 実車は一定加速ですがHyper-G電源はコンデンサ充電特性に依存し次第に加速が鈍くなるので、実車加速度と加速度特性変化を比較して使用法を検証します。

新型電車の加速度は3km/h/秒前後です、DCは加速が悪く旧型なら2km/h/秒程度、大馬力エンジン最新型でも電車に及ばないと推定しました。 電車ならノッチ3で発車、40-50km/hでノッチ4、90km/h前後でノッチ5に進めるとほぼ等加速度運転が可能です。 キハ82/キハ58ならノッチ2で発車、電車より1ノッチ下げて切り替えれば丁度良いでしょう。

EL/DLは2km/h/秒前後、SLは1.5km/h/秒前後と推定しました、発車後1km地点速度は前者が73km/h、後者が55km/h(物理法則で計算)ですので大体合ってると思います。 EL/DLノッチ2、SLノッチ1で発車し速度感でノッチ進めれば良いと思います。 以上の検証は実車に準じた等加速度運転法で、入れっぱなしズボラ運転でも十分実感的だと思います。


◆安全性保証回路改修
出荷試験でOKだった安全性保証回路が検収試験脱線事故で動作せず、返送後試験で再現しました。 フルパワーなら出力トランジスタ焼損が起きる問題で、検収試験と再現試験で動作異常はありませんが、熱ストレスを与えてる可能性があり再出荷前に交換予定です。

【安全性保守回路改修】
安全性保証回路動作=ラッチ回路オフTR93/TR94のベース/GND間原設計はポリスイッチでした。 しかし過電流自己発熱作動素子ポリスイッチは、常点灯の狭いパルス幅で作動時間が長いまたは非作動リスクがあるので、1パルス動作の金属皮膜抵抗に変更しました。


より安全にの方策が逆に大きなリスクを生んだ結果で、実験開始に先立ち金属皮膜抵抗直列に1.3Aトリップポリスイッチを追加します。 この変更は出力トランジスタ焼損事故防止のダブルプロテクションとして、今後の実験結果に係らず最終仕様として採用します。 

安全性保証回路基板を裏ブタから取り外しました。 基板毎脱着して作業してるのは、組込時に配線がとぐろを巻くのを防ぐ為に余裕最小にしており、配線を保護する目的です。

改造部分の拡大です、回路図通りTRベース側にポリスイッチ挿入するには部品/配線が集中するパターン半田外しが必要、ミス避けるには金属皮膜抵抗リードカットしてポリスイッチ挿入しかありません。 それより金属皮膜抵抗GND浮かして挿入の方が安全確実です。

金属皮膜抵抗GNDパターンの半田を吸い取りリードを浮かせました、良く見えてないので1工程毎に写真撮影で確認しないと自信持てません。

金属皮膜抵抗が挿入されてた穴に1.3Aポリスイッチを挿入し半田付け、電流容量必要箇所なのでリード線曲げ半田付け、隣接電源ラインショートがない事をテスター確認しました。 ポリスイッチと浮かせた金属皮膜抵抗リード線をからげ半田、余分リードカットです。

活電部を浮かせて置くのは危険なので、3mmH材2段重ね接着してスペーサーとし、黒い瞬着でモールドが予定工程だったのですが、使い残しボトル底の瞬着使ったらドドッと出てこの通りの失敗(泣)、お見せしたくなかったのですが仕方りません、機能はOKです。

安全性保証回路基板を裏ブタ固定し作業完了、右下赤丸部が改修半田付け部です。 数年前なら途中経過を飛ばし、または集合写真使って作業をどんどん進められたのですが、現在はコレが精一杯、安全確実優先です。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録⑫中央本線の旅

今回は中央本線沿線の旅を紹介します。 その多くは登山旅行で国鉄利用は運転免許取得前の1972年までに集中し、飯豊連峰、尾瀬、谷川岳、妙義山除き全て中央本線沿線でした。

【1964年9月時刻表復刻版】


5-6.中央本線(東線)の旅
残された記録と記憶を頼りに新宿から出掛けた旅をまとめます。
◆1950年代後半
始めて国電でない中央本線列車に乗車したのは1958年秋、家族高尾山ハイキングの際でした。 浅川(現高尾)駅からスタート、ケーブルカーを使わず山道を歩きました。

【1958年秋 筆者と妹】
沢奥滝の前のスナップ、ここからジグザク登りで高尾山、稜線を小仏峠まで歩き相模湖へ下りました。 1960年代中頃には101系MMT2セット6連がハイキング号として相模湖-高尾間に休日運転されてましたがまだなく、70系電車の普通列車に乗ったのが本線初体験です。

【前号より転載】
前回クイズ使用地図赤ラインがハイキング行程で父が記入した様です。 翌1959年の山中湖家族旅行で新宿-大月間を準急『白馬』に乗車しました、初国鉄優等列車でしたが、旧客の地味な外観と低い運転速度にガッカリしました。 宿泊翌日、今思えば洒落た物だと思いますが、始めて見たレンタルのタンデム自転車2台で山中湖を一周しました。


◆高校生時代
高校へ入ってから山仲間ができ、長い休みにバイトして山装備を揃えました。 それまでの日帰り可能な丹沢や奥多摩から夜行日帰り登山に機会を捉えて出掛ける様になりました。

新宿発夜行普通列車を十数回利用したハズと番号振ってみました。 この列車は甲府で30分(非電化のこの時刻表では15分)停車し、小淵沢で小海線始発、茅野で八ヶ岳登山口行バスに接続が良い運転ダイヤでした。

【1965年清里駅構内踏切 右先輩部長、左筆者】
国鉄最高地点に立ちたい、クラブ研究旅行に名を借りた息抜き旅でした。

【八ヶ岳連峰】
その年夏休みの八ヶ岳縦走は初の森林限界を超える高山登山で、茅野から登山口渋温泉までバス、黒百合平から縦走し天狗岳、硫黄岳、横岳越えて赤岳石室泊、翌日最高峰に立ち清里に下り、急行『八ヶ岳』で帰京しました。 後年麓に暮らすとは全くの想定外でした。

【大蔵高丸】・・・ウィキペディアより
大蔵高丸は2,000mに満たない山ですが林道アプローチが長く閉口した記憶があります。 夏の穂高岳は初の3,000m峰挑戦でしたが、天候不順で涸沢ヒュッテから撤退しました。 穂高とは相性が悪く生涯7回行って、登頂できたのは3回だけです。


3回登頂中2回は霧・雨・強風で視界も利かず奥穂高岳山頂標識確認してそそくさ下山、結婚前の嫁さん連れて秋分の日連休に行った時だけ山紀行番組画像の様な360度の大パノラマを満喫しました。 その後2回、最後は1991年に今一度と行き、共に天候に阻まれました。

【鳳凰三山】・・・ウィキペディアより
夏休み穂高に門前払いを食らった仲間と秋の連休利用でリターンマッチに出掛けたのが鳳凰三山です、この時は天候に恵まれ背後に聳える南ア連峰、富士山、甲武信岳や金峰山等奥秩父の峰々、八ヶ岳とその奥に北アルプスまで眺める事ができました。

【瑞牆山】・・・ウィキペディアより
遠出の機会は限られ、仲間に誘われて丹沢の沢登りで岩登りの面白さを知りました、また次第にストイックな登山に移行し単独登山を始めました。 その最初が瑞牆山、スイッチバック韮崎駅下車、増富温泉行バスを2時間待って山小屋1泊の日程でした。 現在は林道が整備され2時間の林道アプローチ不要になり、行き易い山になってます。


◆浪人大学生時代
進学校で世は偏差値教育受験戦争、勝たないと明るい未来像を描けない時代で、現役受験は行きたい(就職有利)大学だけ、当然の様に浪人し予備校通いでした。 受験勉強だけじゃ息が詰まるを言い訳にレイアウト設計や山にも行きました。 岩登りの腕を上げてた山仲間N君の発案で、練習岩場北八ヶ岳稲子岳南壁で4泊5日登攀訓練合宿をしました。

小淵沢で乗り換え小海線松原湖へ、バスで稲子湯へ行き登る事4時間でようやくキャンプ予定地到着です。 100mの岩壁に7-8本ある登攀ルートを日に2本練習登攀しました。 半日潰して麓から5時間歩かないと見る事ができない神秘の湖白駒池に行き大感激でした。

【白駒池】・・・ウィキペディアより
その白駒池はその後麦草峠に道路が開通し、現在は車を降りて10分、紅葉シーズンに観光客が押し寄せてます。 昔を知る者には淋しい部分もありますが仕方ないですね。 その年秋に登った入笠山は現在毎日見上げており、9合目まで道路もゴンドラリフトもあります。

【苔に覆われた白駒池の森】・・・ウィキペディアより
山小屋が閉まる最後の週末に2度目の穂高登山に挑戦し登頂しましたが視界ゼロでした。 翌年八ヶ岳単独縦走の出発点に白駒池を選びました。 この時は山小屋2泊(当然自炊)で未踏の赤岳から先、権現岳、編笠山まで完全縦走し小淵沢へ下りました。

【表銀座ルートから槍ヶ岳を望む】・・・ウィキペディアより
翌1971年には初の槍ヶ岳を目指し、中房温泉から燕岳へ登る定番表銀座コースから槍・穂高を縦走し上高地に下る夜行1泊山小屋3泊の計画で入山しました。 またまた最終日は風が吹き荒れ穂高岳山荘から涸沢経由で上高地下山、この山行にはもう一つ目的がありました。

【槍ヶ岳山頂付近】・・・ウィキペディアより
青学進学し山岳部に入部したN君が夏合宿下見山行で、東西尾根の通常ルートでなく北鎌尾根直登をして滑落し、ヘルメット着用で命は助かった物の両足複雑骨折、入院してた松本国立病院への見舞いです。 1年休学、一生杖が必要と聞きふっつり岩登りを止めました。

【鷲ヶ峰から車山へ】・・・ウィキペディアより
筆者には10歳下の弟がおり、5人家族揃って最初で最後の山行が和田峠から白樺湖へ至る夜行日帰りでした。 下諏訪4時前到着急行で和田峠までタクシー、鷲ヶ峰は1,600mほどですが諏訪盆地が雲海に沈みご来光が綺麗でした。 翌年未踏の北八ヶ岳を踏破してます。 1971-1983年まで毎年岩岳でスキー合宿を行っており、最初3年が国鉄。以降車でした。


◆就職後
1972年に運転免許取得車所有してからは何処へ行くにも原則車、国鉄利用は限られます。

結局新宿発夜行普通列車利用は12回でした、1975年には115系電車化され行先も上諏訪、その数年後に廃止された様です。 大菩薩嶺は結婚前嫁さん連れてった始めての山、2度目が尾瀬、3度目が穂高、底知れぬ晴れ女で、私の人生も晴れにしてくれたと感謝です。

【後立山連峰】・・・ウィキペディアより
山への情熱は失っておらず就職先でワンゲルに所属しました。 1年目の夏合宿が飯豊連峰縦走、2年目が後立山連峰縦走でした。 一番楽な八方尾根から唐松岳ルートで入山し、白馬鑓ヶ岳-白馬岳-朝日岳と北端まで縦走し蓮華温泉に下る計画でした。

【不帰の険】・・・ウィキペディアより
唐松岳の先は不帰の険、梯子や鎖場の難所は下りの方が難しく、男性25kg、女性20kg背負った通過に時間取られ、体調不良者も出て予定の白馬岳テント場を変更し天狗の頭泊になりました。 その結果朝日岳を諦め白馬岳から蓮華温泉へショートカットで下山しました。


多分その2年後でした、ボーイスカウトシニア(高校生)の隊長を務めており、高山登山の希望で同じコースを選定しました。 夜行で現地入り、初日唐松岳テント場、2日目白馬岳テント場と順調に進んでましたが、南方海上の台風が速度を上げて急速接近中でした。

【白馬岳 右】・・・ウィキペディアより
翌日朝日岳で台風に直撃されると身動き取れなくなるので、蓮華温泉下山を決め沢クルミ林のテント場泊、消灯20時頃から風雨が強まりました。 22時頃ズシンという音に続いて人声が、副長と外へ出ると沢クルミの太い枝が折れ他パーティーテントを押し潰してました。


受難パーティーメンバーと力を合わせ下敷きのテントから2人救助、子供達を起こしテント畳んで蓮華温泉自炊棟土間へ避難、眠れぬ夜を過ごしました。 翌朝天候回復しましたが、大糸線平岩から通じる唯一の林道が倒木で通行不能、救急車続いてバスが来たのは午後でした。 中央本線も不通(復旧まで2ヶ月)で糸魚川-長岡経由で新幹線で帰京しました。

【蓮華温泉露天風呂】・・・ウィキペディアより
1ヶ月後連絡先を聞かれてた受難パティーリーダーから事故報告書が届きました。 治療が遅れ内臓破裂でお一方亡くなったそうです、オムロン長岡事業所山の会でした。 事故に遭遇しましたが蓮華温泉はお気に入りで、2度行き逃した朝日岳山行と家族キャンプ2回の計3回訪問してます。 沢クルミ林テント場は使用禁止になり、新テント場ができてました。


今回は鉄道旅と言うより山の思い出特集号になってしまいました。


ではまた。