Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

ユニジョイナー経年劣化問題その後➊

今年春に発覚したユニジョイナー経年劣化問題のその後です。 敷設8年の従来線にどう対策するか悩み、暫定対策を実施しても効果不十分でした。 一番確実なジョイナー半田付けは実施不能、大工事になる補助フィーダー追加にも施工の基礎データが何もありません。

【拙ブログ2021年4月3日更新】
問題発覚時に『がおう☆』さんに納入したHyper-G湖南仕様検収試験で問題が発生して改修が必要になり、そちらを優先した結果半年間検討を先送りするしかありませんでした。

【上記記事より転載】
接触抵抗増加しても通電不良は発生しておらずKATO信頼性設計の問題ではありません。 ジョイナー接触抵抗への筆者配慮不足が原因で、使用条件が過酷過ぎました。 まず全体の半分に20年以上前に購入したユニトラックをそのまま流用して敷設してます。 ジョイナー新品交換の発想さえなく、お座敷運転挿抜で初期値が新品より劣ってたと思われます。

そこに道床/レール/ジョイナー塗装、吹付ならまだしも筆塗でタップリ塗料が浸み込んだでしょう。 更にバラスト固着ボンド水、良くこれまで持ったとも言え、何らかの電気的リニューアル工事が必要と判断しました。


◆暫定対策
問題発覚直後に行った暫定対策について説明します。

ユニトラックジョイナーはプラ製ジョイナーカバーに収納されており、接続状態では相互の道床凹部に嵌まり込んでます。 従来線はこの状態に塗装とバラスト撒布してあります。

レイアウト敷設状態でもマイナス時計ドライバーでこの様にジョイナーを押し、レールとの密着度を向上させる事が可能です。 鑑賞方向から実施すると塗装剥がれ懸念があるので、問題発覚区間全てのジョイナーに対し非鑑賞方向から両レールにこの措置を行いました。

その後ジョイナー隙間から接点復活剤をシュッと一吹き、これで問題ないレベルに改善し、数年は大丈夫と目論んだのですが、期待値の半分ほどの効果しかありませんでした。 従来線のリニューアル、及び延伸線フィーダー設置仕様を決める為に基礎データが必要です。


◆KATOフィーダー設置推奨条件
従来線は『電気区間最大給電距離3m未満』の設計条件で敷設しました。

【前出記事より転載】
駅間距離が短い生野-中山平間は給電距離2.8mと1.8mの位置にフィーダー線路S62Fを設置し、他の2駅間は約9mと長いので給電距離3m未満になる2ヶ所にS62Fを設置しました。 その後、KATO推奨条件が最大4m未満と知り安心したのですが、この情報をどこで得たのか解らずKATO HPを確認しました。 しかし、どこにも掲載されてません。

【30年前のKATO総合カタログ】
所持する昔の総合カタログにも載ってません、小文字で見落とした可能性有りますがね。 で、『多分あの時』と思い当たる事がありました。

敷設完了後の通電試験で笠松信号所でショート事故が発生し、調べたら両渡線外側レールにあるハズのギャップがなく、スイッチバックで別電気区間にすると当然ショートします。 なおTOMIXはギャップ付きですがクロス部無電区間で低速通過不能です。 余談さて置き、KATO相談窓口に電話し、技術的質問したいとエンジニアと話させてもらいました。

8年前ですがQA1-3は間違いありません、その際4・5をついでに確認したのだと思います。

【KATO総合カタログより】
カタログ掲載のお座敷レイアウトプランです。 エンドレス全長約6mでフィーダー1ヶ所、一番遠い場所の給電距離が3m、なるほど最大給電距離4mからマージン持たせてます。

【同上】
こちらも同じレールセットの6mエンドレスプランですが、ポイント2個を待避線使用してます。 この図面のフィーダー位置不適正です、ポイント外側レールは電気的エンドレスですが、内側レールにギャップがあり、給電距離が一方0.2m他方6mになるからです。 それにより速度段差が出る可能性があります。 適正位置は両ポイントからほぼ等距離のエンドレス中央部です。 このプラン集見てたらトンデモナイ記載がありました。

最新カタログに同様記載あるかどうか知りませんが、『なじませツナギ』1-2mm差なら解りますが、10-20mm差をレールやジョイナーに負担掛けて強引に繋ぐ方法です。 KATOにチョッとガッカリさせられました。


◆最大給電距離が意味する事
最大給電距離は何で決まるのかと考えてみました。 KATOから聞いた4m(マージン込3m?)の電気的・使用感覚的な意味です。

ユニトラックはキャブコントロールの両ギャップレイアウト組込用途も含めて設計されてます、最大給電距離4mとした極端な例です。 1周16mエンドレスを半分に2ギャップで区分し、各電気区間中央にフィーダー設置した例です。 ギャップ両側の給電距離が等しいので速度差は発生せず、フィーダーからの距離による速度低下が気にならなければOKです。

もう一つの極端な例です、1周8mエンドレスを半分に2ギャップで区分し、各電気区間終端にフィーダー設置した例です。 ギャップ両側の給電距離は一方が30mm他方が4mでレール/ジョイナー抵抗による電圧差が生じます。 速度差が気にならなければOKですが・・・。


ではどの程度の電圧差ならギャップ通過時速度差が感覚的に気にならないのでしょうか? 問題発覚時は1.5Vでした、1Vでも気付いたと思えるのでNG、でも0.5Vなら『ポイント通過時に少し速度変化?』程度と思われ、許容限0.4-0.5Vの様です、今後それを調べます。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録⑯中国・四国➍

前回の続編、時刻表一冊でのしゃぶり尽くし随想も今回が最終回です。

【復刻版1964年9月時刻表】
九州がまだですが、回想したくない思い出しかないので・・・と言う事で割愛します。


◆一泊家族旅行先
自家用車は高根の花、遊園地や動物園はあってもテーマパーク(TVで見た米国ディズニーランドは夢の世界でした)などない当時は、年に1度あるかないかの家族1泊旅行先は鉄道で行く景勝地+温泉が定番でした。 首都圏なら箱根・伊豆(熱海・伊東・修善寺)と日光・鬼怒川が両横綱、少し間を置いて榛名山・伊香保、白根山・草津のランキングでした。

【天橋立】・・・ウィキペディアより
関西の事情に詳しくありませんが、それに相当するのが南紀白浜と天橋立・城崎ではなかったかと思います。 天橋立には本項で紹介した初訪問以降1980年頃にも行ってます、ボーイスカウト高校生隊員移動野営の付き添いで、ここを起点に1週間かけて久美浜まで丹後半島を1周踏破しました。 関西圏からの旅行客が多かった事が時刻表からもうかがえます。

天橋立は山陰本線綾部から舞鶴線・宮津線がルートです。 京都から3往復の準急『丹後』が運転されてます。 大阪始発福知山線経由の準急『丹波1号』は城崎行2編成で、福知山で分割し1編成は城崎直行、もう1編成は綾部に逆行し天橋立経由で城崎終着です。

【城崎温泉】・・・ウィキペディアより
城崎は通過が数回あるだけで宿泊経験はありません、行ってみたい場所の一つです。

驚くのは豊岡を通過する特急『まつかぜ』停車駅である事です、それだけ利用客が多く国鉄が重視してた証拠です。 関西圏3大都市に配慮したダイヤで京都・大阪・神戸からの直通列車が運転されてました。


◆スジ屋の傑作
中国地方は東西に長く路線配置は東北地方を横にした形に似てます。 東北に都市間連絡準急が多数運転されてた様に中国地方にも多くありました。 拙ブログで仙台・米沢始発の『あさひ』『たざわ』『もがみ』『くりこま』準急群の複雑な分割併結を紹介しました。

東北事例は仙台/山形/秋田/盛岡/釜石/酒田/盛/新潟連絡でしたが、200km前後の準急に相応しい運転距離でした。 中国地方で運転距離560km、複雑な分割併結運転してた準急『しんじ』について紹介します。 時刻表での理解が難しいので運転系統図を作成しました。


➊『しんじ』主編成は博多6:40発、山口線経由で山陰へ向かいます。
➋下関で山陰本線経由別編成『しんじ』に接続、別経路走行後石見益田で併結します。
➌米子で伯備線/芸備線経由広島行の準急『しらぎり』を併結します。
➍米子隣駅伯耆大山で鳥取13:38発下り準急『石見』に5分で接続します、鳥取/倉吉と新見/三次/広島連絡の役割を果たしてました。

➊伯備線を混合編成で走行し、新見で芸備線経由広島行の『しらぎり』を分割します。
➋と同時に広島から芸備線で来た準急『たいしゃく』を併結します。
➌岡山で終着の『たいしゃく』を分割解放します。
➍と同時に鳥取から因美線で来た準急『砂丘』を併結し宇野終着です。


博多始発宇野行、山陰遠回りで東京-大阪並みの運転距離を13時間、通しの乗客は居なかったと思いますが、様々な機能を盛り込んだ多性格列車で、スジ屋(ダイヤ編成者)の芸術作品です。 それを可能にしたのが統括制御可能なキハ55/58系の存在と、現場の苦労や手間にはお構いなしの国鉄体質だったと言えます。 合理化優先JRでは考えられない事です。


◆四国を結ぶ列車達
さんざん揉めた末に3案全て建設された本四架橋、それ以前は連絡船で渡る海の向こうの島でした。 四国の入口宇野へは東京から特急・急行各1本、より近い関西からは多数の列車が運転されてました。 ここで時刻表マニアとして重大なミスに気付きました。

関西圏からは東京始発に加え電車準急『鷲羽』4往復と連絡船含めた夜行普通列車2本が運転されてました。 重大なミスとは特急『うずしお』の存在を見落としてた事です。

確かに151系フル編成列車、東京-名古屋区間特急『おおとり』の下に『うずしお』と書いてあります。 でもね、特急が本当に特別な列車だったこの時代に、短距離、かつ四国アプローチ線とは言え、特急2本なんて全く想定外でした。 数年後運転開始『あずさ』『あさま』『しなの』は250km強、所要4時間弱に対し『うずしお』は230km、3時間弱です。

『うずしお』誕生の背景は送り込み回送列車営業運転だったと思います。

その他の四国と結ぶ列車達です。 『鷲羽3号』の連絡船接続時間が長いのは、山陰方面から19:30着の準急『しんじ/砂丘』接続の為です。 大阪-宇野230km、高松-松山/高知は200km未満で夜行列車運転距離に短く、真夜中の連絡船運航で夜行可能にしてました。


◆四国内の接続列車
筆者に宇高連絡船乗船経験はなく初の四国訪問は2003年、以降10回近く訪問してますが航空便と車がほぼ半々、鉄道利用は北九州出張の帰路に高松に立ち寄った1度だけです。

【1980年の高松駅・高松港】・・・ウィキペディアより
連絡船廃止後の高松駅は1/3ほどに縮小され、積込線跡地にANAホテル(現在は経営母体変更)がオープンしマイレージで利用した経験があり、連絡船時代の面影が残ってました。 また四国友人によるとここでも乗り継ぎ列車座席確保の桟橋マラソンがあったそうです。

【宇高連絡貨客船伊予丸】・・・ウィキペディアより
宇高連絡は距離の短い内海航路で青函連絡に比べ船が小型だったので、貨客船だけでは貨物輸送量に追い付かず、ほぼ同数の貨物専用船、つまり貨車運送船が運航されてました。

北海道と同じく四国も連絡船ダイヤに合わせ各地を結ぶ列車が運転されてました。 夜中3時台の始発列車があったのは四国だけで、夜行移動の必要性から生まれた物です。

連絡船接続を全て紹介しても無意味なので特急接続だけにします。 予讃本線・土讃線には東京・大阪からの特急に接続する形で日に2本の急行が運転されてました。 四国はヨン・サン・トウダイヤ大改正で特急大増発(大安売り?)後も特急不在エリアでした。


◆四国の特急
四国の特急登場はヨン・サン・トウダイヤ大改正後、エル特急登場同年の1972年でした。

【キハ181 101】・・・ウィキペディアより
使用車両はキハ181系、運転距離が短く食堂車なし、編成表確認できませんが4両だったと推定します。 短編成で先頭車が不足しキハ181 100番台の先頭車改造が実施されました。

【キロハ180 5】・・・ウィキペディアより
後年利用率の低いグリーン車対策として、キロ180からキロハ180への改造も行われてます。 2008年に仕事で鳴門へ行った帰りに徳島から阿波池田、土讃線で大歩危まで行って高松へ引き返す乗り鉄をしました。


吉野川沿いの徳島-阿波池田間はローカル線の面影が色濃く残り、車窓からの渓谷美も楽しめましたが、行程全区間特急で大歩危は無人駅、只々驚きでした。 ダラダラと思い付くまま書き進めた本シリーズはこれで終了、お付き合いいただきありがとうございました。


ではまた

国鉄黄金時代回想録⑯中国・四国➌

コロナ騒動が始まって以来、筆者夫婦の伯父伯母(叔父叔母)お三方が亡くなりましたが、県境を越えた移動自粛で葬儀に参列できませんでした。 昭和戦前世代兄弟数は最低5人、7-8人が普通で夫婦合わせた父母双方の伯父伯母はザッと30人、不思議ではありません。

【復刻版1964年9月時刻表】
1世代下の筆者夫婦は共に3人兄弟、世代の標準で地方農家では4-5人が普通だった様です。 機械化されてない当時の稲作は人海戦術で、人手は多いほど良かったからです。 跡取りは通常長男、それ以外は家を出て自分で将来を切り拓くしかない運命を背負ってました。


◆金の卵達の集団就職
当時の大学進学率は10%台、高校進学率も7割強でしたので、毎年50万人以上の中卒就職者があり『金の卵』と呼ばれてました、経済大発展時代で求人倍率3倍以上でした。 北海道・東北からは主に首都圏一部関西圏、九州・離島からは関西圏を中心に中京圏・首都圏への就職でした。 盆や暮の年1-2回帰省し、その足は離島を除きほぼ100%国鉄でした。

【ウィキペディアより】
春先のTVニュースでは、上野に到着した集団就職列車から降り立つイガグリ頭・学生服、オカッパ頭・セーラー服のすぐ年上の『金の卵』達と、幟旗で出迎える企業担当者の様子が流れるのが年中行事でした。

【間もなく出稼ぎの季節】
雪の深い北国では稲作だけで食べて行けず、あるいは子供に高等教育を受けさせたいと世帯主が出稼ぎに出るのも当たり前でした。 今回は金の卵や出稼ぎ労働者が盆・正月の帰省に利用した列車を追ってみます。


◆中京圏からの西行列車
最初は中京圏名古屋からの西行列車です。 東北からは直通列車所要時間12-24時間の首都圏か関西圏で、交通の便が悪い中京圏は非常に少なかった様で、ダイヤからも解ります。

名古屋始発の九州行急行が2本運行されてます、勿論関西圏からも利用可能なダイヤです。 急行『さつま』は朝名古屋発で博多までの昼行と九州域内夜行の2重人格列車です。 一方急行『阿蘇』は名古屋19:20発で、中京・関西圏と広島以西間夜行列車の性格です。

編成表によると『阿蘇』はB寝台・食堂車併結の1級急行編成ですが、『さつま』は2等寝台1両だけの素っ気ない編成、運転距離考えると名古屋-博多間食堂車あってもと思います。


翌月の新幹線開業で名古屋始発西行長距離列車の存在意義は大きく低下し、前回紹介した1974年の初山陰旅行の際に京都始発に変更された急行『阿蘇』を利用しました。 運転時間は京都19時台に変更され、下関で山陰本線始発列車に接続する都合の良いダイヤでした。


◆関西圏からの西行列車
東京始発の神戸以西山陽山陰及び九州行優等列車は、『さくら』を除くブルトレ3本が大阪発午前1時台で使い難いだけで、他は全て関西圏から昼行/夜行になるダイヤでした。 そして東京始発関西圏止り列車の穴を埋める関西圏始発西行列車が多くありました。

山陽本線経由九州行だけでこれだけあります。(『音戸』は下関行ですが九州入口という事で・・・汗) ここでも長距離普通列車が3本運転されており、関西圏-広島間と広島-北九州間が夜行利用可能になってます。 北の上野-仙台間、仙台-青森間と同じ関係です。 運転区間も鹿児島本線、日豊本線、長崎本線/佐世保線と九州全県をカバーしてます。

編成表によると寝台急行は『ひのくに』と『音戸』(時刻表記載は寝台急行ですが座席者2両の準寝台急行)の2本だけで首都圏から北行する優等列車群に見劣りします。 路線や地域の格にこだわる国鉄の体質の現れで、関西人はケチだからが理由ではありません。


◆山陽圏からの西行列車
東京始発、関西圏始発急行列車の隙間を埋める様に岡山・広島朝始発の九州へ向かう昼行急行列車ダイヤが組まれてました。

始発駅は岡山・呉・広島で行先も様々です。

いずれもキハ58系のキロ28を含む編成です。


◆関西圏から山陰方面の列車
東京始発の急行『出雲』は京都5:15発で、山陰本線昼行列車の性格も持ってました。 関西圏始発の山陰方面急行列車は3本、京都・大阪・神戸の3大都市に配慮したダイヤです。

3本の急行は山陰本線・福知山線・播但線経由で松江・大社・浜田を結びます。 『三瓶』と『だいせん』大社着はわずか13分差、到着客と出迎え旅館従業員でこの時間帯はあの由緒ある駅舎が混雑したと思います。

そして他路線に比べて多いのが長距離普通列車、それだけ利用客があった訳です。 4本中825レを除き1等車併結、717レは寝台車まで併結してます。 寝台車併結普通列車は北海道にも例がありました。  

編成はキロ28を含んだキハ58系、準急にはキハ55系や稀にキハ20系が使用されてましたが、DC急行は100%キハ58系でした。


◆急行『だいせん』物語
そう言えばKATO新製品に急行『だいせん』見た記憶があり調べました。

【KATO製品紹介より】
急行『だいせん』は新世代客車夜行列車名として引き継がれ、かなり以前に姿を消してます。 何でも簡単に調べられる世の中ですから・・・。

【出典:ウィキペディア】
この時刻表の時代まで『だいせん』は伯備線経由で関西圏と大社/浜田を結ぶ列車名として使用されてきました。 大きな変化を受けたのはヨン・サン・トウダイヤ大改正後です。

【出典:ウィキペディア】
ヨン・サン・トウで優等列車が大増発され、それまでバラバラだった列車愛称が同一路線同一区間は〇〇▲号の様に統一され、伯備線経由は『おき』に、福知山線経由の複数急行が『だいせん▲号』に統一されました。


その後山陰本線内急行の併結・解消や夜行の20系置き換え、鳥取終着列車の『いなば』改称と再度『だいせん』改称等々様々な変化が急行『だいせん』に起きました。

【出典:ウィキペディア】
1980年代後半以降は『だいせん』凋落時代です、KATO製品は1990年前後の姿を再現した様です。 『だいせん』廃止は旅のスタイル変更から当然の帰結だったと言えます。
➊山陰アクセスが関西から西行より、山陽から北行の便が良くなった。
➋夜行列車移動の効率性より休日増加により疲労減優先に変った。


ではまた。