Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

広かった昭和30年代の日本

ネタ不足で始めた鉄の履歴書シリーズですが、振り返ると色々書きたい事、思い出す事があり、良い整理になりそうです。 昭和37年、中学入学時点まで進みましたが、今回は当時と現在の、時間的感覚的な日本の広さの違いについて書いてみたいと思います。


空路・鉄道・車を使い、家族旅行・帰省・学校行事などで、自宅から500km以上の旅を経験した現在の中学1年生は、多分半分以上ではないかと思われます。(我家の子供達は25年前の夏休みに北海道ドライブ旅行を経験しています) 200km以上、首都圏なら、いわき、福島・新潟・長野・浜松辺りに狭めれば9割を越えるかもしれません。

【ローカル駅の夜】
昭和37年は東京オリンピック・東海道新幹線開業の2年前、サニー・カローラが発売されたマイカー元年の4年前、東名高速道開通(厚木ICまで)の5年前です。 テレビのカラー化や電話の普及が進み、航空便はまだ庶民の乗り物ではありませんでした。 高度経済成長が社会全体に及び、豊かさを実感できる様になったのはこのすぐ後の時代です。


東京育ち筆者の昭和37年最遠点は、東は九十九里浜、北は石打、西は沼津一駅先、全て所属していたボーイスカウトキャンプ地とスキー訓練地です。 それ以外は、東は稲毛、北は館林、西は山中湖、夜行列車で両親の里帰りに同行する機会でもない限りそれが普通でした、500km以上、大阪・盛岡以遠を経験した同級生は1割以下だったと思います。


関西まで7時間、九州、北海道まで20時間、所要時間は現在の3倍です。 最南端、最北端まで2日がかり、空路が発達した現在に比べ、感覚的距離感は10倍近くありました。 後年、石垣・西表や利尻・礼文を訪問できる様になるとは全く思えませんでした。 年寄りの感傷になりつつあるので、この辺でやめて置きます。


ではまた。

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