Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

鉄の履歴書ー10 最初で最後の一等車

東京オリンピックが開かれた昭和39年、中学2年の正月です、この年は家族で正月旅行へ出かけました。 帰省ラッシュは現在の比でなく、特に北行は臨時列車大増発でも上野駅テント村に10時間近く並ばないと乗車できない時代でした。 旅行先は南紀、関東から少し出た事しかなかった私の初遠距離旅行でした。 父が奮発して一等均一周遊券を用意してくれた様です、年末30日の出発列車は急行「那智」一等寝台でした。

【夜汽車】・・・汽笛が細く長く谺します。

遠くへ行きたい夢の実現、初の寝台車、時刻表片手に東京新宮間一睡もせずに外を眺めていました。 名古屋から音で蒸機牽引になったと解りました、停車駅で見に行きたい衝動がありましたが、未知の土地で真夜中では勇気が出ませんでした。 多気で急行「伊勢」分割後は、蒸機の息遣いが聞こえなくなり、山間部をゆっくり進みました。


新宮での瀞峡観光は往復プロペラ船内で寝ていました、紀伊勝浦に2泊、初日の出を拝み那智滝へ行きました。 串本を見て白浜で1泊、白浜口和歌山間は準急「きのくに」だったと思います、和歌の浦と和歌山城へ寄りました。 この日の宿泊場所記憶が欠落しています。 最終日は大阪城へ行き、大阪駅から急行「よど」で帰京しました、急行一等車より特急二等車の方か良かったのにと思いました。 等級制時代に一等車へ乗った唯一の旅でした、と同時に国鉄ローカル線への興味が一気に高まる契機にもなりました。


《注》当時の急行「那智」を調査した結果、乗車したのはオロネ10一等B寝台、牽引機は名古屋からC57、多気からDF50だったと推定しています。 準急「きのくに」はキハ55系か58系か特定できませんでした。 白浜口の駅名記憶は間違いなし、翌昭和40年に白浜へ改称されていました。 記事掲載に係わる考証調査も楽しい作業になっています。


ではまた。

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